表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

02「パーフェクト・ウォー「太平洋戦線」」

 日本海軍の真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争だが、戦争序盤は戦争準備が整っていた日本軍の圧倒的優位で進展した。

 たった半年足らずで、東南アジアは日本の軍門に降った。

 この戦争において、日本が果たした最も大きな歴史的動きだったと結論できるほどの結果だった事は間違いないだろう。

 世界史的にも、日本が最も影響を与えた事も間違いない。

 

 しかし1942年6月のミッドウェー沖海戦での日本軍の敗北以後、日本軍による一方的戦闘展開はなりを潜めた。

 

 もともと日本には長期戦を戦う国力はないし、連合軍を押し続けるだけの正面戦力はなくなっていた。

 すでに中華民国との事実上の全面戦争で、国力は限界に達していた。

 

 真珠湾奇襲攻撃からミッドウェー沖海戦が、日本近代化の一つの頂点だったのだ。

 

 そして初期の勢いが止まってしまえば、攻勢を続けることも難しかった。

 

 だが、当面攻勢に出る力がないのは、太平洋方面の連合軍いやアメリカ軍も同様だった。

 アメリカ自身の戦争準備がまだ完全には整っていなかったし、揃った戦力はまずは欧州方面へと注ぎ込まれていたからだ。

 

 そこで太平洋戦線を任されたニミッツ提督とアイゼンハワー将軍は、当面は守勢防御を徹底的に守りつつ、まずは情報収集を熱心に行った。

 敵の弱点を知れば、必ず活路が見える筈だからだ。

 そして彼らの結論は、守勢防御を維持しつつの通商破壊の徹底だった。

 

 反撃や攻勢は、ヨーロッパ戦線が片づいて戦争資源が大量に回されてくるまで極力行わず、敵の進撃を防いで消耗を促しつつ、彼らの海上通商路を徹底的に破壊することにした。

 何しろ日本海軍は正面戦力に偏りすぎて、海上護衛能力は列強海軍でも屈指の低さだったからだ。

 海軍の正面戦力から比較すれば、皆無と表現しても良いぐらい歪だった。

 現時点での海上護衛能力は、北アフリカへの補給で苦労しているイタリア海軍以下と判定が下されたほどだった。

 

 そして太平洋という戦場は、海を渡らなければ何もできない戦場だった。

 

 以後太平洋方面では通商破壊の徹底強化という方針に従い、手間と時間のかかる戦艦や大型空母の建造、修理、改装は必要最小限以外は後回しにされ、とにかく潜水艦と機雷、そして必要十分の航空機の整備にリソースが回された。

 既存の空母についても、修理が長引くようなら後回しにさせた。

 欠陥が明らかとなった潜水艦用の磁気魚雷も、ただちに徹底して改修させた。

 

 また航空機動戦力も大切だったが、実質的には二の次とされた。

 少しぐらいなら日本軍に先に進ませてもよいという判断があったからだ。

 一方で鈍足な旧式戦艦などは、当面はまったく不要だった。

 ハワイで破壊された旧式戦艦の全てが、修理・改装スケジュールを半年以上遅らされたほどだった。

 改装が簡略化された艦も多く、結果としてそれで必要十分だった。

 

 二人の司令官は、日本軍がオーストラリア本土に上陸したりハワイに攻め寄せる気がないのなら、派手な兵器も作戦も戦闘も必要ないと判断を下していた。

 むしろ補給の限界を超えて日本が攻めてくることを期待したほどだった。

 

 ミッドウェー沖海戦でのアメリカ軍の勝利は、二人の司令官にとっては一つの機会だったが、彼らの望む戦争を行うためのまたとない機会ともなった。

 

 そして42年後半からは、太平洋で当面不要になった部隊や兵器をヨーロッパに回す代わりに、彼らが必要とする兵器を太平洋に持ち込んでいった。

 求めたのは先にも書いた通り通商破壊に必要な兵器と部隊だった。

 潜水艦、機雷、そして航空機の中でも輸送船攻撃用の中型攻撃機が太平洋へと回されてきた。

 遠距離目標に対する機雷投下のためのB24も、優先的に回してもらえることになった。

 これらの兵器のほとんどは大西洋では無用のもので、必要なら英国が用意できる程度のものだった。

 

 そしてこれらの兵器群は42年夏頃から効果を発揮し始め、早くも同年秋には日本軍の輸送船舶は徐々に不足するようになった。

 また襲撃の際には、タンカーと前線での兵員輸送船を例外とすれば、日本海軍の護衛艦艇や駆逐艦を優先的に徹底して狙わせた。

 遠洋漁船クラスでも、爆雷や機銃を積んでいれば容赦しなかった。

 目標が魚雷1本より安そうでも気にしなかった。

 たとえ雑艦の撃破でも、昇進や報償を優遇した。

 

 そして日本海軍がまともに海上護衛艦艇と運用する組織を揃えず、潜水艦隊対策も二の次としていたため、致命的な速度で日本海軍の海上護衛戦力は減少、枯渇していった。

 日本海軍が遅ればせながら泥縄式に対潜水艦対策を用意するよりもずっと早く、アメリカ軍が通商路と護衛艦艇を致命的なまでに破壊していった。

 そして南太平洋での消耗戦もあって、日本海軍自慢の艦隊型駆逐艦も補充がまったく追いつかない消耗を始めた。

 米軍の艦艇不足と戦場での偶然などから、戦術的に日本軍が勝利することもあったが、米軍は戦術を戦略で覆していった。

 ゼロは確かに強かったが、まともに相手せずに基地への補給を絶つことに専念した。

 

 しかも二人の司令官は、合理性と冷徹な判断から、日本軍をニューギニアの要衝ポートモレスビーと、ソロモン諸島の先にあるニューヘブリデス諸島にまで引き込んで、一気に消耗戦を仕掛けた。

 

 42年秋にはあえてニューカレドニア島近辺にまで引き込んで、日本軍の攻勢能力を完全に奪い取ってしまった。

 日本商船団ご自慢の高速貨物船は、格好の餌食となった。

 陸路で進んできた日本軍に呆気なく手渡したポートモレスビーと周辺海域も、42年秋には日本軍船舶と航空機の墓場となっていた。

 しかも日本軍は、陸路でさらなる増援を送り込む事で、自ら墓穴を大きくしていた。

 

 なお、この時アイゼンハワーは、日本軍の進撃を危惧するオーストラリアとニュージーランドの両政府を巧みに説得した。

 そして日本軍を引き入れて殲滅することを両国に了承させ、それを実行して見せた。

 この過程で、アイゼンハワーの人間的魅力と調整の巧みさが広く知られるようになる。

 


 1943年に入ると、日本の護衛艦艇数と船舶量は大きな降下線を辿るだけとなった。

 損害の程度は、もう前線も主要通商路も関係なくなっていた。

 まともな海上戦闘もしていないのに日本海軍の大型艦艇すら欠けていき、前線での兵員輸送は自殺行為に等しいほどの大損害を受けた。

 日本人将兵の間で、撃沈率十五割と言われたほどだ。

 つまり、一度撃沈されて救助されても、救助された船が沈められる確率も五割あるという事だ。

 

 43年も秋になると、もはや決戦どころではなくなっていた。

 タンカーが異常なほど集中的に狙われたため日本本土にまともに油は届かず、ましてや艦隊に多数が随伴する事は不可能となっていた。

 そしてタンカーから補給を受けるべき戦艦や大型空母すら、潜水艦に撃沈される事態が起こっていた。

 

 しかも米海軍は、機雷敷設用の潜水艦を建造して43年春ぐらいから大量に配備するようになった。

 日本の領域深くの港湾には、次々と日本軍がまともに除去できない磁気機雷など機械式機雷を設置していった。

 これにより日本本土近辺での海上港湾破壊、海上交通破壊も短期間で深刻化した。

 

 しかも米軍が太平洋に配備する潜水艦の数は、43年夏には既に200隻にも及んでいた。

 一部の艦艇の建造を中止や延期して、潜水艦建造と兵員確保を行った結果だった。

 

 そして国際的に認められた病院船以外の目に入った船は全て沈められていった。

 護衛も満足にない日本の輸送船団は、もの凄い勢いで減っていった。

 守護神である筈の聯合艦隊も外洋に出れば雷撃にあって、重巡洋艦や空母ですら簡単に餌食となった。

 慢性的に護衛艦艇が少ないので、主要艦艇の護衛すらどうにもならないのだ。

 護衛艦艇として出された商船改造の低性能の護衛空母などいい的でしかなく、ほとんどが最初の航海で何もできないまま撃沈されてしまった。

 基地航空機の投入も行われたが、機材は依然旧式なものがほとんどで組織も貧弱だったため、有効というにはほど遠い状態だった。

 

 いつしか日本海軍は艦隊保全になってしまい、陸軍や国民が何と言おうとも現実問題として決戦もままならなくなっていた。

 就役したばかりの自慢の巨大戦艦も、トラック諸島から逃亡するときに複数の魚雷を受けて大きく損傷して、二隻とも内地のドックの中だった。

 しかも日本に苦労して修理させるため、撃沈せずにあえて見逃した節すら見られたほどだった。

 なぜなら圧倒的不利となった日本艦隊に対して、アメリカの潜水艦群が引き上げた節が見られたからだ。

 戦後判明した事実では、単に魚雷を撃ち尽くしただけに過ぎだけだったのだが、それほど日本海軍の心理は追いつめられていた。

 

 あまりの敗勢に、ソロモン方面からの撤退が決まった43年4月には、ニューギニア方面で一個師団を丸々乗せた輸送船団が全滅した戦闘とポートモレスビー陥落によって、山本五十六は聯合艦隊司令長官を自ら辞任せざるをえなかった程だった。

 

 組織のトップが責任を取らねばならないほどの損害が出ていたのだ。

 しかもこの時点での損害など、まだまだ序の口に過ぎなかった。

 

 にも関わらず、日本では陸海軍の戦争資源の奪い合いが依然として続いており、日本海軍内でもいまだ護衛艦艇の建造や組織の編成、運用は二次的な扱いしか受けていなかった。

 

 そんな愚かな事をしていたツケは大きく、その支払いはいち早くやって来る。

 


 1943年9月にヨーロッパ正面での反攻作戦が成功すると、その年の冬には太平洋方面の艦艇を中心とする戦力が俄然増加した。

 太平洋での反撃も、自在に行えるようになった。

 ようやくニミッツとアイゼンハワーの苦労が報われる時が来たのだ。

 

 ここで米軍は、一気に中部太平洋各地攻略を実施する。

 

 既に日本軍は半死半生であり、まともに決戦に及ぶ力はなくしていた。

 各地の島嶼も、取り残された僅かな守備兵がいくらかいるだけだった。

 これは開戦初期はまともに兵力を置かず防備を怠たり、その後の増強もままならなかったし、その力もなくしていたためだった。

 南洋だけでなく、全通商路で徹底した通商破壊が行われ、膨大な損害が堆く積み上げられていった。

 実際43年の初夏からの半年間には、何と300万トン以上の輸送船舶が沈んだ。

 膨大な物資や石油以外にも、移動中の30万人以上の将兵と多数の兵器が、連合軍の攻撃で海の藻屑と消えた。

 日本軍が重視したラバウルやトラックなどの戦争初期から兵力の多い例外もあったが、連合軍にとって例外は迂回すれば良かった。

 全てのイニシアチブは、今やアメリカ軍が握っているのだ。

 

 そして、アメリカが日本本土攻撃の最大の要衝と位置づけていたマリアナ諸島では、日本軍がまともに増援を送り込めなかったため、米軍が侵攻したときにもまともな戦闘にならなかった。

 日本政府が、あわてて「決戦」や「難攻不落」の言葉を自ら封じたほどだった。

 

 日本軍も日本軍なりに努力はしたのだが、ことごとく輸送船は潜水艦に沈められてしまい、増援の船は一隻もマリアナ諸島に到着しなかったのだ。

 海上で失われた兵力だけで、マリアナ諸島全域で3個師団以上、5万人達した。

 輸送中に溺死した兵士は輸送量全体の半数程度だったが、生き残った濡れ鼠の残兵はまったく戦力価値をなくしていた。

 鉄砲一つ持たない溺れかけた半病人など、現地労働者以下の価値しかなかった。

 効率よく殺されに行ったようなものだった。

 

 アメリカ軍が上陸した時、サイパンにはまともな陸兵が多めに見ても1個連隊程度しかなく、地上戦ではほとんど戦闘にもならなかった。

 上陸した米軍が一番気を遣ったのが現地日本人民間人の保護だったというから、戦闘の名にすら値しなかったのは確かだろう。

 

 ならば航空戦力での反撃と日本軍は言いたかったのだろうが、前線では全ての物資が不足していて、本土では生産のひどい滞りが見られるようになっていては、何をか言わんやという有様だった。

 

 米軍による前線での戦闘すらおざなりにした徹底した通商破壊作戦によって、日本という国家そのものが近代戦、総力戦をまともにさせてもらえなくなっていたのだった。

 

 故に日本海軍は、当初はタンカーと燃料の不足でマリアナ諸島防衛を事実上放棄していた。

 しかし各方面からの圧力と面子もあって無理矢理出撃するも、進撃途上でアメリカ軍潜水艦からの波状攻撃を受けて空母複数を何もしないまま失って、決戦を挑めないままの後退を余儀なくされた。

 有力な艦艇を失い、なけなしの油を無駄に浪費しただけで、当然海軍の権威は失墜した。

 また聯合艦隊が何も出来ないほど追いつめられている事に、日本軍全体が落胆してしまった。

 

 1944年1月のサイパンの戦いは、まともな地上戦は3日間程度しか続かなかった。

 マリアナ諸島の他の島も似たようなものだった。

 

 このため米軍は、進撃速度のさらなる上方修正を決定する。

 そして1944年3月には、硫黄島が奇襲的に襲われて呆気なく陥落した。

 こちらも以前から駐留していた僅かな数の飛行場設営隊しか駐留せず、まともな陸兵は大本営の紙の上にしか存在しなかった。

 このため、艦隊による事前攻撃が必要なかったほどだった。

 ほとんど無血上陸だったため、勇んで上陸した海兵隊員は大いに拍子抜けさせられたという。

 何しろ日本兵は死体ですらいないのだ。

 派手な戦いは、アメリカの空母部隊が日本本土沿岸を支援攻撃で空襲して回った事ぐらいだった。

 

 そしてマリアナ諸島と硫黄島には、いち早く巨大な飛行場が無数に設置され、日本本土攻撃の準備に入った。

 

 その間日本では東条内閣が総辞職を余儀なくされたが、そんな事はもはや些末な問題だった。

 総力戦をしたくてもできない事の方が、現実の戦争を前にして問題だった。

 


 ニミッツ提督とアイゼンハワー将軍は、徹底した通商破壊戦と最低限の島嶼占領、日本本土に対する徹底した機雷封鎖だけで、日本を屈服させるつもりだった。

 マリアナ諸島や硫黄島をいち早く奪ったのも、日本本土全域に効率よく機雷をばらまくためだった。

 各地に建設された巨大な飛行場群も、そのためのものだった。

 本国の総司令部が、新型爆撃機と共に欧州で活躍したルメイ将軍を送ろうとしたが、それも謝絶していた。

 

 太平洋に爆撃屋は不要だった。

 

 米本土での絨毯爆撃計画とその実験すらも中止させ、他に予算を回させた。

 陸軍中央が進めていた中華大陸へのB29配備も、事前計画ごと中止となった。

 重要なのは、機雷と潜水艦、船舶攻撃用の中型攻撃機だった。

 あとは制空権を取れるだけの戦闘機があれば十分だった。

 

 日本という魚を、陸に引き上げてしまえば勝ちなのだ。

 

 こうした英雄無き戦いは兵士の間に不満もあったが、二人の優れた司令官は人間的魅力とアイゼンハワーの巧みな弁舌と調整能力によってうまく制御した。

 取りあえず自軍の戦死者が少ないというのは、誰にとっても嬉しい事だった。

 

 ただし日本軍に心理面で負けを認めさせる、一度だけ大規模な陸上戦闘が必要だと考えられた。

 また陸軍にも、いくらか名誉ある戦いが必要だとも考えられた。

 そこで行われることになったのが、台湾島への大規模な侵攻作戦だった。

 

 これならアメリカ陸軍の活躍の場も十分にあるし、チャイナへの連絡路を開くこともできる。

 本国が求める、日本本土進撃への足がかりともなる。

 何より日本と南方資源地帯を完全に遮断することができた。

 アイゼンハワーは、マッカーサーが開戦時に強く求めたフィリピン奪回を完全に無視していた。

 

 かくして1944年5月、巨大な戦力が動き出す。

 

 アメリカ軍は、15隻の高速空母を擁する大機動部隊を中核として、艦船合計2000隻と第一波上陸兵15万人以上の大攻略部隊を編成した。

 しかも後続として、さらに10万人以上の増援を予定していた。

 上陸指揮官は、太平洋のもう一人のアイクである、アイケルバーガー将軍だった。

 

 まずはスプルアンス提督率いる機動部隊を用いて、沖縄、台湾、フィリピンの日本軍を徹底的に空襲した。

 すでに通商破壊により弱り切っていた貧弱な日本の航空戦力は、まともな抵抗を行えずに徹底的に叩き潰された。

 油のない航空部隊など、七面鳥以下の存在に過ぎなかった。

 

 これに対して瀬戸内海に逼塞していた日本海軍は、なけなしの燃料と残存戦力を結集して総攻撃を決定する。

 シーレーンの遮断は、自らの事実上の死を意味するからだ。

 

 これに対してアメリカ軍は、各地への機雷投下の強化と潜水艦の大量投入による徹底した妨害を開始する。

 

 戦闘は、当初から「決戦」と呼ぶにはかなり違和感のある戦いとなった。

 

 日本海軍が出撃して決戦海域に達するまでに、早くも主戦力の三分の一が沈むか脱落していた。

 沈没した艦艇は比較的少なかったが、残された僅かな大型空母もよろけるようにもと来た道を潜水艦に怯えながら引き返していった。

 

 しかも、総力を挙げて待ちかまえていたスプルアンス提督率いる米空母機動部隊が、日本艦隊に対して二日間で9度にわたる徹底した空襲を実施した。

 戦闘一日目の夕方に日本艦隊がたまらず撤退を開始してもさらなる追撃戦を行い、日本海軍に壊滅的打撃を与えることに成功した。

 

 この戦闘で水上砲撃戦はついに発生せず、ただ水中と空中からの攻撃が、強大だった筈の日本海軍を壊滅させてしまった。

 日本軍は空母機動部隊による「アウトレンジ戦法」を実施して米軍を驚かせたが、驚かせただけで終わった。

 米軍側の万全の艦隊防空体制を前に、自らの戦力を無為に消耗しただけの結果しか残さなかった。

 「台湾沖のターキーシュート」が歴史上に残った言葉だった。

 その後はまさに米軍の追撃戦、いや残敵掃討でしかなく、日本海軍のうち特に水上艦艇は何もしないまま敗残兵や抵抗もできない獲物へと成り下がっていた。

 米潜水艦乗りは、エスキモーのアザラシ射ちと同じだと揶揄したほどだった。

 

 何とか呉もしくは佐世保に帰り着けたのは、主力艦では旧式戦艦3隻と軽空母、重巡洋艦が数隻ずつだけで、それらのほとんども損傷していた。

 艦載機を使い果たして途中で引き返した空母が何隻か残っているのが慰めだったが、もはや動くべき油もなく、標的以外の価値はなかった。

 

 自慢の巨大戦艦は、その巨体が徒となって集中攻撃の目標とされてしまい、水中と空中からの波状攻撃で艦隊決戦どころか撤退の機会も与えられないまま2隻共沈没した。

 米軍側が戦後になって、沈んでいないはずだと日本中を探し回ったほど呆気ない最後だった。

 

 そして海と空での日本軍の戦力は、まともに戦えないまま潰えた。

 


 台湾島での戦闘は概ね二ヶ月で決着がつき、ここでも輸送船舶の不足と交通線の破壊から、事前の増援を送り込めなかった日本軍の惨敗に終わった。

 

 アイゼンハワー将軍が最前線に現れることは無かったが、派遣された将軍達は嬉々として任務に励んだ。

 

 またアイゼンハワーは住民への配慮を怠らなかったが、一方では徹底した敵戦力の殲滅も実施させた。

 日本軍に負けを認めさせるための戦いだから容赦しなかった。

 しかも現地日本軍部隊の一部暴走から、各地での市街戦となった台湾は大きく破壊され、荒廃してしまう。

 

 日本側は、軍人の戦死者だけで20万人、一般市民の死者も全島民の一割近くに当たる50万人に達した。

 なまじ住民の抗戦意欲が高かったため、犠牲もその分膨らんだ。

 これに対して米軍も1万人以上の戦死者を出すことになったが、十分許容範囲の損害だった。

 

 そして艦艇のほとんど失った日本海軍は意気消沈し、制海権を完全に失い海上交通が維持できなったとして、戦闘以後は講和に大きく傾いた。

 また日本海軍は、この敗北で敗戦の責任を取ったと見られたので、戦後の非難が大きく和らいだのは大きな皮肉だろう。

 

 一方日本陸軍中央は、台湾で惨敗してもまだまだやる気だけは十分だった。

 中央にいる彼らにとってのまともな戦闘をしていないと考えていたからだ。

 だが、戦争資源が大きく不足していて、本土決戦のかけ声すら空しい言葉でしかなかった。

 44年春までに、インド方面での攻勢作戦も本土決戦を優先するとして命令として中止されたし、米軍に台湾に来られたので支那方面でも一号作戦どころではなくなっていた。

 作戦発動前に台湾が落ちたため、ビルマでの作戦と一号作戦遂行の意味すらほとんど無くしていたからだ。

 台湾が落ちた時点で、事態は援蒋ルート遮断や陸路での南方通商確保どころではなかった。

 次は日本本土決戦を行わなくてはならないのだ。

 

 まさに陸に上がった河童であった。

 

 また本土決戦の声も高らかに国民の総動員を実施したが、近代国家として未熟だった日本で総動員された新たな兵士達は、兵士としてまるで役に立たない存在でしかなかった。

 将校の不足もひどかった。

 このため日本のエリート軍人達も、既に日本が限界を迎えていることを実感として悟ったと言われている。

 

 しかも台湾に進出した大型爆撃機群が、さらに日本勢力圏各地への機雷投下を徹底した。

 海上交通路も、大陸を結ぶ航路を完璧に封鎖・破壊してしまった。

 瀬戸内海ですら航行が困難だった。

 港という港が、機雷によって廃港となった。

 44年6月には日本の海上交通全てが事実上遮断され、日本列島は各地での自給自足に頼るしかなくなっていた。

 輸送船舶の量も、既に200万トンを切っていた。

 これだけ残ったのも、港に逼塞するしかなくなったからだった。

 

 日本本土は沖縄を含めて、軍事拠点と一部の重要工場を除いて殆ど何も破壊されていなかったが、もはや戦争どころではなかった。

 44年秋には、日本本土で得られる収穫物を食べきってしまう頃に、日本本土での食糧不足も決定的になることが分かり切っていた。

 そして45年初夏には食糧が尽きて、飢餓線をさまよう国民が500万人を越えて国家の崩壊が始まるという結論が出た。

 

 全てはあまりにも早期に海上交通が完全に破壊されたからであり、派手な戦闘に囚らわれず徹底した相手戦争経済の破壊を行った、太平洋方面の二人のアメリカ軍司令官の勝利であった。

 

 そして日本が自らの降伏について真剣に議論を始めた頃、ドイツの降伏とソ連とドイツの戦闘停止が伝わってきた。

 

 ここでいまだ中立を維持していたソ連は、講和の仲介を言い寄ってきた日本への言を左右にして、ヨーロッパで得られなかったものを奪い取るため日本に対する参戦を決意する。

 無論日本に伝えることはなかった。

 日本に対する参戦は、1945年3月を予定した。

 軍隊を欧州から極東に移動しなければならないし、忍耐強いロシア兵といえど真冬のシベリアや満州では満足に動けなかったからだ。

 何しろ不凍液すら凍ってしまう世界なのだ。

 

 一方アメリカ軍は、三ヶ月でヨーロッパから太平洋への陸軍主力(2個軍)の移動を完了して、ソ連より早い45年1月に日本本土侵攻作戦を計画した。

 また44年11月には、沖縄もしくは南西諸島を橋頭堡として確保する作戦を行う予定だった。

 あまりに破滅的だった通商破壊によって、既にそこまで日本は弱体化していたのだ。

 

 そしてドイツ降伏から約三ヶ月後の1944年10月26日、ドイツのポツダム宮殿で「ポツダム宣言」が出される。

 

 太平洋方面軍からの詳細で的確なレポートが、戦争の潮時である事をアメリカ本国中枢に伝えた結果でもあった。

 加えて一時的にワシントンに帰ってきたアイゼンハワー将軍に説得されては、ルーズベルト大統領といえどもうなずかざるを得なかった。

 

 またこの時のレポートとアイゼンハワーの説得によって、ポツダム宣言に日本が降伏しやすい一文(※国体護持に関する一文)が含まれており、日本側も当初から積極的な受け入れ姿勢を示した。

 

 そして多少の紆余曲折はあったが、同年11月8日に日本はポツダム宣言を受諾。

 同11月23日、東京湾での降伏調印によって日本は降伏した。

 

 連合軍将兵の賭けの対象となった通り、クリスマスまでに戦争は終わったのだ。

 


 なお終戦前後にアイゼンハワーが日本擁護と取れる行動を積極的に取った背景には、いくつか理由がある。

 多くはアメリカ軍将兵の無駄な血を流させないためだが、いかに日本及びその周辺地域での占領統治を行うかという事が考えられていた。

 

 もちろんだが、日本人を殺したくないとか日本列島を破壊したくなかったからなどという理由ではなかった。

 無論無意味な殺戮は否定していたが、彼は当時の良識あるアメリカ人の一人であった。

 

 彼が求めたのは、効率的な完全勝利とその後の円滑な占領統治。

 

 ただそれだけだった。

 


 ちなみに、各国で研究された総力戦レポートの予測よりも、第二次世界大戦は早く終了した。

 最低で半年、最大で一年以上戦争は早く終えられたと判定された。

 アメリカだけで最低で500億ドル、最大で1500億ドルの戦費が抑えられたと言われた。

 しかも皮肉な事に、ドイツと日本の戦費も数百億ドル低く抑えられたとも言われている。

 日本に至っては、日本本土並びに領域の多くが爆撃などで破壊されなかったため、軍人以外の死者が極めて少なく済み、保全された資産は数百億ドルに達するとすら言われている。

 日本人の死者総数(台湾除く)が100万人を切っている事でも、その事が分かるだろう。

 

 予定より早い終戦が、勝敗を問わず各国に若干ではあったが負担の軽減をもたらしていたのだ。

 

 つまり勝利した側の国は、余力を残していたとも表現できるだろう。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ