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道坂出版社 企画部第2課

 再び外に出ると、そこは驚くほどのゲリラ豪雨だった。


 階段を上がった瞬間、幸子は二度目の水たまり攻撃を食らう羽目となる。

 びしょ濡れの状態で道坂出版本社ビルの自動ドアをくぐると、エアコンの冷たい風が幸子の肌に突き刺さった。

 澄まし顔の受付嬢は、横目で幸子を見ただけだ。幸子は水滴のついた社員証を掲げながら、エレベーターホールへしょんぼりと進む。

 行き先は3階。エレベーターの扉が開けば、すぐ目の前には新人賞や話題の小説本を担当する華やかな企画部1課。

 グリーンのパーティションで区切られたお隣は、企画部3課である。

 そちらで作られているのは、ファッション雑誌とタウン誌。若い人員が多く、お喋りの声もにぎやかだ。

 しかしそんな賑やかな部署の隣をそっとすり抜けて、幸子が辿り着いたのは3階の奥の奥。

 そこに足を踏み入れると、急に静まり返る。薄暗く、風も抜けない。

 ついでにいえば壁もない。四方に古いパーティションが立てかけられただけ。

(もともとミーティングルーム、だもんね……)

 第2ミーティングルーム。と書かれた看板を幸子は見上げる。その看板の上には、手書きで「企画部2課」と書かれた紙が貼り付けられていた。

 エアコンから遠く、窓も壁もない。幸子はパーティションの内側を、そっと覗き込む。


「た、ただいま……もどりました」


 中には4人の社員が、ぼんやりと椅子に腰掛けている。

 オフィス机はちょうど5個。元々あった大きなミーティング机は隅っこに立てかけられ、開いた場所に事務机を運び込んだ形だ。

 ホワイトボードを吊るす場所もないので、地面に無造作に置かれている。

 書類棚も本棚もなく、紙ボックスに書類を突っ込み、地面に重ねられていた。

 そんなボックスを蹴飛ばさないように気をつけながら、幸子はホワイトボードの文字を消す。

「あの……」

「ああ……天神ちゃんか。おう。遅かったな」

 二度目の声掛けでようやく気づいたのか、手前の席に座った男性が手を挙げた。

「遅くなってすみません、あの、雨……」

「いーよ。お使いごくろうさん。風邪ひかねえように、ちゃんと拭いとけよ」

「そうそう、お茶でも飲んでさ、もっとサボってきてよかったのに、真面目だねー」

 声を重ねてきたのは、その隣の男性。

 彼の前の席に座っているのは、音量全開でスマホゲームに興じる女性。

 彼女はスマホから目も離さないまま幸子に声をかけた。

「幸ちゃん、有給ずっととってないでしょ。とっときなよ」

 手前の席で最初に手を上げた男は、幸子の一年先輩である野田。

 その隣は営業出身の、奥田。

 ゲームに興じる女性は、幸子より5つ年上の寺下。

 一番奥の席に座り、顔も上げないのが、この課のリーダー、前島。

 そして昨年入社した、幸子。

 これが幸子の在籍する企画部2課の全メンバーである。

 電話機が無いので、電話も鳴らない。電話だけでなく、プリンターもなければ、スキャナもFAXもない。

 そもそも、月に数日しか仕事をしていない。

「あの……今日、来月号の企画とか。企画会議するって話聞いてましたが。紙面の……構成の」

「いーの、いーの。気にしなくて。いつもどおりでいいよ、テンプレで」

 恐る恐る声をあげた幸子に、先輩の野田がわざとらしく明るく言う。

「いつもどおり、来月と再来月に出る新刊だけ、エクセルでまとめといて。俺が来週にでも体裁整えとくから」

 無言の前島が恐ろしく、幸子は恐る恐る自分の席に戻った。

 立ち上げたパソコンの画面、メールの受信ボタンを押してもなにも受信などしない。分かっているのに、押してしまうのは癖だ。

(あ、そうだ。日誌付けておこう)

 仕方なく、デスクトップの隅っこに置かれたエクセルファイルをクリックする。中にはずらりと……一年と少し分の、幸子の日誌がまとめられていた。

 入社日に書かれた日誌が一番長い。あったことを全部書き込もうと躍起になっている。

 半年後、祖母が亡くなった日は一週間、空っぽだ。

 そしてそこから先は一文か二文程度の短い日誌が連なって、報告事項何もなし。の日も増えてくる。

 昨日も一昨日も、何もなし。その前は、1課の手伝いに駆り出されている。

 今日は『午後からデザインプロダクションに、アイテム返却』それだけだ。

(そうだ。あの……坂道出版もこっそり日誌、作っちゃおうかな)

 誰に見られることもないのに、幸子は恐る恐る周囲を探る。

 相変わらず、課には怠惰な空気が流れていた。

(作ろう。忘れないうちに)

 エクセルに新しいシートを作り、しばらく考えた後『坂道出版・出向日誌』と文字を打ち込む。

 坂道出版のこと、そして須坂のことを思い出しながら文字を打つと、顔がかっと熱くなる。

 3人しかいないオフィスはここよりずっと明るく、優しい空気に満ちていた。

(……去年は、もう少し活気があったのにな)

 幸子は過去の日誌を流し読みし、ため息を押し隠す。

 一年と少し前、この2課は小さな新人賞を任される部署だった。

 しかし入ってちょうど半年ほど経った時だろうか、課ごと、この部屋に追いやられたのだ。

 元々2課の入っていた場所には3課が入った。

 2課はそれから、すっかり仕事を干されている。

 新人賞は別の部署担当となり、作っていた雑誌の仕事もなくなった。今、この部署に任されているのは月一のフリーペーパー、一種のみ。

 書店で配られるフリーペーパーで、元々は代理店に任せていた仕事をリーダーの前島がもぎ取ってきたのだ。

 とはいえ、それも新刊の情報を型に入れていくだけの簡単な仕事だ。真面目にやれば2日で終わる。

 それによって失われていく、やる気。

 おかげで2課に属していた人間は続々と部署異動や退職で、離れていった。

 ……残ったのは、この5名のみ。

(リーダー、やっぱり顔色、悪いな) 

 幸子はパソコン越しにリーダーの顔を見る。

 できるだけ顔をあげないように黙々とパソコンに向かうその人は、幸子の大学の遠い先輩でもある。

 こんなことになった原因は、リーダーの前島と1課の編集者の諍いが原因だ……と、噂に聞いた。

 1課の編集者が新人作家を追い詰めて、パワハラ紛いのことをした。それに前島が口を出したのが諍いの発端。

 運が悪かったのは、相手がコネ入社のボンボンであったことである。

 裏から手を回され、腕のいい編集者は全員1課に抜かれた。

 そして残りは全員、ここに流された。

 島流し部署と言われ、中には憐れむ人もいるようだが誰も近づいては来ない。

 幸子がここに残ったのは、まだ編集経験の浅いミソッカスであったせいもあるが、何より、前島を見捨てることができなかったのだ。

 ……面接に遅刻した幸子をかばってくれたのは、前島だと人事部から聞いた。

 だから、幸子はこの部署に留まっている。前島に言えば怒るかもしれないので、内緒だ。

 恩を受けたら返しなさい、それが祖母の口癖だった。

(何も返せてないけど……)

 親切にしてくれた人を忘れてはいけない……それは祖母の口癖であり、同時に、昔読んだあの赤革の冒険小説のテーマでもあった。

「……あ」

 定時まではまだ時間がある。せめて来月発行のフリーペーパーを見直そうとして、幸子は思わず声をあげた。

 ……鞄の隅に入れておいたファイルが、それごと消えているのだ。

(坂道出版社のソファの上だ)

 ハンカチを探す時、荷物を外に出した。そのとき、忘れてしまったのだ。

 祖母には鞄の中をちゃんとしておきなさい、そうすれば忘れ物を無くせるのだから。と何度も言われたものである。その言いつけは正しかった。と幸子は肩を落とす。

「どうしたの天神ちゃん」

「野田先輩、すみません、来月号のレイアウト……どこかに置いてきちゃったみたいで……」

 恐縮する幸子に野田は大げさに吹き出してみせる。

「あれ、校正してたの? いいよ、入稿近くになったらどうせ外注の校正に投げちゃうしさ」

「でも、編集サイドも一回は見ておいたほうが」

「じゃあ、また見ておいてくれる?」

 幸子達が作っているのは、書店に配られる新刊情報のフリーペーパーだ。

 とはいえ、実際はさほど刷られず、書店にもおまけのように配られるため、ほとんど誰の目にも通らない。

 書店にいっても、そのフリーペーパーが配られているところを見たこともない。

 地下にある在庫置き場の奥、廃棄置き場にごっそり置かれているのを見たときは切なくて悔しかった。

「あ、天神ちゃん、聞いたんだけどさあ。君、学生の時にバイト先続々潰した猛者だって?」

 野田がちゃかすように、幸子に言う。

 奇抜な企画案で有名だった野田だが、ここ半年ですっかり腐ってしまった。

 いじわるではないが、言葉に棘がある。 

 その棘は、彼自身の苛立ちだ。それが周囲を傷つける。

「それは」

「そうそう。実は私もそうなんだよねー。野田っちもそうなんだって。猛者揃いじゃん、この部署」

 続いて寺下が次はスマホのゲームに興じながら、言う。

 彼女は以前、雑誌の担当だった。

 見やすく面白い紙面のデザインアイデアを出し、何かの賞をとったこともあると聞いた。

 しかし、彼女のアイデアを使うこともできない。すっかり彼女のやる気は失われ、今の寺下の興味はゲームの世界だけ。

「片付け……しますね」

 手持ち無沙汰の幸子は、湿った気分で立ち上がる。べったりと濡れたスカート、それと今の気分はそっくりだった。

「まだ定時まで時間ありますし」

 壁にかけられた時計はまだ16時を指したばかり。

 定時まであと1時間半もある。すっかり時間を過ごしてしまったと思ったのに、時間は経っていなかった。

(須坂さんところで……夕日を見た気がするけど、気のせいかな……)

 今日は色々なことがありすぎて、幸子は深く考えるのをやめる。そのまま書類ボックスの前に腰を落とすと、そこにはぎっしりと小説の単行本が詰まっていた。

「先輩、これ」

「……ああ。それね、もう捨てていいよ」

 声をかけると、ようやく前島が顔を上げる。出会った時より低い声だった。

 その歴史小説は、前島の持ち物だ。

 低く、呻くような声で幸子と目も合わさない。

「でも」

「どうせ歴史小説なんて今は売れないって、一蹴されるだけだから」

 彼は以前、歴史小説家の担当だった。その箱の中にあるのは、彼の携わった本ばかり。

 表紙のイラストレーターは気難しい人で、アポもなかなかとれない。

 それを粘りに粘ってアポを取り、小説のプレゼンをして、絵を手に入れた……そんな武勇伝を、歓迎会で幸子は聞いた。生き生きと、本当に嬉しそうに彼は語ったのだ。この本は、中も表紙も宝物だ……。

「分かりました」

 幸子は捨てるふりをして、そっと自分の机の下にそれを隠す。

 彼らもまた、多くを妥協して、諦めて生きている。

 幸子もまた、この半年で多くを妥協してきた。

「ちょっと、ゴミ捨て場までいってきます」

 適当に不要な書類をまとめて幸子は立ち上がる。ゴミ捨て場は地下の廃材置き場の奥だ。

 業者用の広いエレベーターに乗り込むと、音もなく寺下が滑り込んできた。

「待って待って」

「先輩?」

 彼女の持つゲーム機から、ぴこぴこと明るい音だけが響いてる。

「あのさあ」

 寺下はエレベーターの壁に背中を押し付けて、腕を組む。

 ぱあん、とスマホから音がする。攻撃を食らって爆発するような音だ。

 それを横目で見て、彼女はまたスマホをピコピコとタップした。

「……幸ちゃん、なんでここ残ったの?」

「え?」

「私はさあ、1課の花形デザイナーと喧嘩してっから、行くところなくてここにいるの。野田っちは、ああ見えて、前島のボス追いかけてこの会社に入社してる忠義者だから、死なばもろともでしょ」

 エレベーターが音を立てて開く。寺下に促され地下の廃材置き場に出れば冷たい空気が体を包み込む。

 ……地下はこの季節でも、涼しい。ぶるりと震え、幸子は寺下を見る。

 彼女はスマホ画面を見つめたまま、幸子を見ることもない。しかし、言葉だけがつるつると彼女の口から漏れた。

「奥田も1課の営業と仕事の取り合いになって負けたからここにきた。つまりさ、2課は島流し部署なんだよね。噂じゃまもなく取り潰されるよ。フリーペーパー、次の企画で新しい案出さないと、なくなるって」

 廃材置き場には誰も居ない。進めば、二人の足音だけが響く。

「ボスは責任感じてるから皆の行き先を何とかしてから辞めるだろうし、野田っちは止めてもボスのあとに続くでしょ。奥田はわかんないけど、私は迷ってるとこ。いっそ辞めて異業種に進んでもいいし」

 ゴミを所定の場所において、2課の名前をボードに刻む……はじめて2課に配属された時のドキドキ感やワクワク感を幸子は思い出していた。

 こだわった単行本を作る部署。新人賞も他とはちょっと目線を変えた、面白い賞を実施する部署。そう聞いていたし、皆の交わす会話が面白く、飽きなかった。

 あれから、もう一年も経つ。

「私はさ、喧嘩してるデザイナーに舐められるから、今辞めるのは嫌なの。最後まで見届けようと思ってる。みんなそうだよ。でも幸ちゃんはさ、何も無いじゃない。別に悪いこと、何もしてないじゃない。運が悪かっただけ。こんな部署にきて」

 寺下が真剣な顔で幸子を見つめた。

「私達にさ、別に付き合ってくれることはないんだよ」

「違います、私は」

「物語、作りたいんでしょ? 発掘されてない作家さん見つけて育てて、本作ってさ」

 寺下は寂しそうにそう言って、スマホをポケットにねじ込む。

「ここに居たら駄目だよ。変な噂つくと、他の課でもやっていけなくなるから、傷が深くなる前に早く別の部署いきな。4課に仲いい子いるから、そっちになら回してあげる……あっちも今度、新レーベル立ち上げるらしいし、今からなら入り込めるでしょ」

 寺下の目線の先には、廃材と書かれた固まりがあった。

 それは先月出した2課のフリーペーパーだ。縛られて、ボロボロになって、そこに転がっている。

 多分、ほとんど配られないままに。

「寂しいよね」

 地下は冷たい風が吹く。

 坂道出版社とは異なる冷たさに、幸子はぶるりと一回震えた。



「あの」

 エレベーターから再び2課の部屋に戻った幸子は、薄暗い顔の前島の前に立ってそっと書類を彼に差し出す。

 それは有給申請と書かれた書類だ。

 前回、これを差し出したのは祖母が亡くなった日のこと。

 その時前島は書類を破り捨てたのだ。今こんなのやってる場合じゃないだろう。忌引申請しておくから、さっさと葬式にいけ。

 冷たいくらいの声だったが、葬儀には先輩たちが全員、駆けつけてくれた。

 寺下の描いてくれた祖母の似顔絵は美化され過ぎていて、久々に幸子は笑ってしまった。 

 そんな思い出が蘇っては消えていく。

「あの……一週間後の金曜、有給貰っていいですか?」

「何日でもどーぞ」

 前島の代わりに、野田が声をあげ、寺下のゲームの音がぴこーんと重なる。

 そして今回、前島は有給申請用紙を破かず、無言のままでハンコを押した。

(書きたい……話……やりたいこと……作りたい物語)

 憧れの出版社に入ったものの、幸子は色々と妥協をしてきた。

 本への憧れ、本作りへの希望。

 幸子だけではない。この部署全員が、妥協をして、諦めて、ここにいる。

(そういえば……須坂さんの……物語って、なんだろう……)

 しかし、絶対妥協したくないこともあるのだ。

 幸子は心の奥に芽生えた気持ちをぐっと抑え込む。

 それは先輩たちが諦めた本作り、という夢である。

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