はじめてのお使い1
坂道編集長が『裏口』と呼んだその場所は、名前の通りオフィスのちょうど裏。給湯室の隣にあった。
薄い扉を開ければ、また階段だ。
うんざりとしながらのぼってみれば、ものの10段ほどで地上にたどり着く。
(来るときはあんなに長かったのにな)
冒険感と背徳感が、階段を長く感じさせていたのかもしれない。
そんなことを考えながら、幸子は『非常口』と書かれた鉄の扉を力いっぱいに押す……重い扉を開いて外に出て、幸子は唖然と固まることとなる。
「止んでる……」
目の前に広がっているのは、きれいな夕焼け空。先程までの雨はどこへいったものやら、地面には雨染み一つない。
振り返れば赤レンガの社屋が見える。ちょうどここは裏口にあたるのだろう。しかし雨の跡も、オフィス街特有の気忙しさもない。
周囲に広がるのは見覚えのあるような……ないような……そんな住宅街だ。
四角い家に、背の低いマンション、電柱、錆びたマンホール。
(蝉が……鳴いてる……?)
かな、かな、かな。とどこかから蝉の声が聞こえた。不思議なことにそれは夏終りに聞く蝉の声なのだ。いささか季節感が狂っているのは、気候異常のせいだろうか。
幸子は静かな住宅街を見渡して、足を止める。
真っ赤な夕日に照らされた地面は、ゆらゆらと揺れているようだ。
(あんまり……蒸し暑くないし)
むっとした湿度高めの空気は相変わらずだが、肌に張り付く感じはしない……オフィスを出た途端、季節感まで狂ったようだ。
(懐かしいような、見たことのあるようなないような変な街……)
社屋の表は、どんなことになっているのだろう。幸子の中に、そんな好奇心が疼く。
名前をつけるなら、ここは見知らぬ懐かしい場所、だ。
社屋の表側に回れば、本当に知っている場所が広がっているのだろうか? 好奇心に思わず足が動きかけるが、ぎりぎりのところで編集長の言葉を思い出す。
迷子にならず、目的地にまっすぐいくこと。
「……よしっ」
誰も見ていないのに、幸子は腹に力を入れて書類を抱きしめる。
まだ夢の世界にいるようだ。もしかすると今朝、仕事に出たときからずっと夢の世界なのかもしれない。
……それはそれでいい。少なくとも、車に雨水をはねられずに済むのだから。
(えっと、道を右に曲がって……)
編集長に言われたとおり、角を右に。夕日に赤々照らされた道には、誰も居ない。電柱と、転がった子供用の自転車。そして壊れた自動販売機。
遠くには神社の鳥居が見える。こんなところに神社なんかあったかな。と幸子は背を伸ばしてそちらを見る……が、その前に、目的地についてしまった。
(ここ、だ)
道の角。そこにあるのは薔薇のアーチだ。奥にあるのは映画でしか見たことのないような、立派なイングリッシュガーデン。
「うわあ」
幸子は庭を覗き込みぽかんと口を開ける。
ハーブと薔薇と、可愛らしい白い花が花壇で揺れている。奥にはガラスでできた温室まで見えた。
緑の美しい庭の真ん中には、素朴な木造りの丸テーブル。
テーブルの上には花の刺繍が施されたテーブルクロス。その前には、線の細い猫脚の椅子。机の上には洒落た陶器のティーポット。持ち手の華奢なカップ。それを前に座るのは……。
「あのう」
生け垣から顔を出すように、幸子は背伸びをする。
椅子に腰掛け編み物をしているのは、渡された書類にあった須坂という女性だ。写真で見るよりずっとふくよかで若々しくみえる。
ふんわりとした白髪まじりの髪も、綺麗にすいてあって上品だ。
「須坂様でいらっしゃいますか。私、道さ……じゃない、坂道出版のものですが」
顔をのぞかせた幸子に気づいたのか、須坂は編み物をぽん、と放り出して顔を上げる。
「あらあらまあまあ。ごめんなさい。玄関に回ってくださる? すぐに開けるから」
洋風玄関の前にたてば、やがて彼女は青い杖をつきながら穏やかな笑顔で幸子を迎えた。
ゆるやかなラインのワンピースと青いサマーカーディガンがよく似合っている。
「週に一度、進捗確認に来てくださるように、私の方からお願いしたのよ。それなのにすっかり忘れていて……申し訳ないわ。まだ何も書けてないの。私ってねえ、どうしたって素人だから……編集長さんからはね、お好きに書きなさいって。でもねえ、案外難しいのねえ」
言いたいことがたくさんあるように、彼女のお喋りは止まらない。しかしその声の響きが不思議と心地よかった。
「童話もいいし、ミステリーっていうのも良いわよねえ。でも何も思いつかなくって……やだわ。私ったらお喋りね」
そう言いながら幸子を室内に招き入れる。そこはまるでアンティーク家具の展示場だ。背の高い棚、細かい彫りが施されたローテーブル。お姫様が座るような、赤い布張りのソファー……。
まるで高級ホテルか、洋館の貴賓室のよう。
「こちらの椅子へどうぞ、お嬢さん」
スカートが乾いているか何度も確認して、幸子はおずおずと椅子に腰を下ろす。
「どうぞ、少し待ってちょうだいね。お茶をお淹れするわ。今日は暑いから、アップルミントティなんていかがかしら」
窓際の椅子に幸子を座らせ須坂はうきうきとキッチンに向かう。キッチンの壁にはハーブが干され、多く並んだ瓶にはスパイスらしきものが詰まっている。
「暑い日には温かいお茶がいいのよ。でもミントなら、ちょっとさっぱりして良いでしょう? りんごの香りも、ミントにすごくよく合うの」
足が少し悪いようだが、家の中にはあちこちに支えとなる椅子や棚がある。生活がしやすいような工夫がなされているのがわかった。
「綺麗な……お家ですね」
「主人がね。こういうのが好きだったのよ。イングリッシュガーデン、毛糸で編んだティーコージー、薔薇の花一輪添えたテーブルクロス……まあ主人もとうに亡くなったのだけど、今でもあの人が帰ってくる気がして、家をあの人の好みに揃えてしまうの」
歌うように須坂がいえば、応えるように湯がわく。
口の細いホーローの白ケトルに、ガラスのティーポット。お湯を注げば、甘いりんごとミントの香りが部屋の中一面に広がった。
「お砂糖は? これには入れたほうがいいわ。絶対に、3つがおすすめ。ミルクはなしでね。これにビスケットもどうぞ、ちょうど良かった。昨日焼いたばかりなの。お口に合えばいいのだけど」
須坂は人をもてなすのが好きなのだろう。
うきうきと、大きな皿にクッキーを盛り上げて机に置く。可愛いカップと、ティーポットもだ。
あっという間に、そこはちょっとしたお茶会の雰囲気となった。
「あ、いただきます」
幸子は恐縮しながら、紅茶をすすりビスケットをかじる。
涙が出るほど、温かい味だった。
そういえば今日は昼ごはんに軽く水を飲んだだけ。雨に濡れても体の中はカラカラだったのだ。
口の中いっぱいに、青っぽいりんごの風味に、鼻を抜けるミントの香り。四角くて大きなクッキーは甘さ控えめで、ガリリとした食感と強いジンジャーの味わいが刺激的。
クッキーの風味が残っている間にお茶を口にすれば、様々な香りが一気に鼻を抜けていく。
一気に紅茶を飲む幸子を見て、須坂は早速二杯目を注いでくれた。
「すごく……美味しいです! ジンジャーですか? ほろっとして、あったかくて……」
目を丸くして幸子が感想を述べると、須坂は胸を張り嬉しそうに微笑む。
「イギリスの伝統的なお菓子なのよ。あちらはねジンジャーのお菓子が人気でね。何にだってジンジャーを入れるんだから」
「イギリスで……生活を?」
「結婚前に少しだけ。留学をね。ウェールズの田舎だったけど、素敵だったわ」
うっとりと、須坂は目を閉じる。この家の雰囲気も、彼女の雰囲気もウェールズに似合うのだろう、と幸子は思う。行ったこともない場所だが、きっと、彼女によく似合う。
壁には銀の額縁に彩られた写真が飾られている。まだ若い彼女と、その隣に立つのはすらりと背の高い男性。
写真は若い頃から白髪頭になるまで、何枚も飾られていた。季節と思い出がそこに閉じ込められているようだった。
(旦那さん……亡くなってるっぽいけど、もう、イギリスに遊びに行ったりしないのかな)
ふと、思うが口にはできない。そこまで差し出がましいことは言えなかった。
幸子の気持ちなど気づきもしない須坂は前のめりになって、幸子に耳打ちをする。
「知ってる? イギリスには妖精がいるの」
「では……そのような物語を書かれたいと?」
ふと、幸子はキッチンの隅に置かれたアンティークな棚を見る。バラモチーフの木の棚には、本がいくつか並んでいた。
ほとんどが料理の本のようだが、いくつか小説も混じっている。だからこの女性も小説には興味はあるのだろう。
だからこそ、坂道出版に依頼をかけた……そのはずだ。
しかし、原稿の話をすれば、彼女はすっと顔色を悪くした。
「それがねえ……思いつかないの……」
しょぼん、と彼女は顔をうつむけた。視線の先に、真っ白な原稿用紙が見えた。
それには坂道出版のロゴが入っている。その上には、きれいなブルーのインク瓶に、水滴のように美しいガラスペンも。
そのペンを握り、手放し、彼女は困ったように首をかしげる。
「何を書きたいのか、どんな物語なのか……ちっとも私の中から出てこないの」
須坂は遠くを見つめ、目を細める。
「でもね、書きたくないわけじゃないの。実は私からお願いしたのよ。おたくの編集長さんに……何か思い出に残るような物語を書いてみたいって。締め切りまであと一ヶ月半しかないのだけど間に合うかしら」
「大丈夫です」
幸子は無責任な言葉を放って、少しだけ後悔した。
「あの、きっと、大丈夫です。私も……一緒に考えますから、きっと、大丈夫……」
須坂の言葉を聞いて幸子は悟った。
彼女はどうやら素人だ。小説なんて書いたことがないのだろう。しかし幸子だってそうだ。多くの小説を読んだが、書き方についてはズブの素人。
そんな幸子が女性から物語を、話を引き出せるのか。
若干の絶望を紅茶で流し込み、必死に頭を捻らせる。
「たとえば、お料理がお得意なようなので、お料理のお話とか」
「お料理はねえ……覚えたのはすべて主人のためだったの。あとは惰性ね」
「刺繍とか編み物とか……」
「これも主人が好きで……イングリッシュガーデンは私の趣味でもあったけど、書けるほどの知識はないのよ。お庭は業者の方におまかせしっぱなしで……」
困ったように須坂はいう。おっとりしているので、緊迫感はないものの、真っ白のままの原稿が、彼女の焦りを表しているようだ。
幸子は必死に、職場に置かれている様々な本を思い浮かべた。
料理本、エッセイ、経済の本……ある程度年配の男性に人気なのはビジネス書だった。
女性なら、エッセイだ。可愛い表紙がよく似合う……そうだ、須坂の本なら、この素敵な庭や家具を表紙に使うのもいいかもしれない。
「小説でなくても、例えばエッセイとか……留学の経験を生かして思い出を……これまでの人生を書かれる人も多いようですが」
「そうね」
深い溜め息をついて、彼女はジンジャークッキーをガリリとかじる。
そして赤黒く暮れていく庭を眺めて、静かに目を細めた。
「振り返ってみれば、思い出は多いけど……書けることってあんまりないわ。胸の内に宝物みたいに……入れておきたいものばかり。でも、何かは書いてみたい、そんな焦りはあるの」
言葉が途切れると、静かな家だった。
きれいな家具に美しい調度品に囲まれて……しかし彼女は一人きりでここにいる。
やがて幸子の目線に気づいたのか、須坂は少し寂しそうに微笑んだ。
「ごめんなさいね。せっかく来てくださったのに。また……来週も来ていただける?」
「良いんですか? 邪魔になりません?」
「若い方とお話ができてとても楽しかったわ。あなたとお話しするとアイデアが浮かびそうで。それにお菓子を振る舞える相手ができたのは、とても嬉しいことだわ。この年になると、お友達もあまり遊びに来てくれないものだから」
須坂は穏やかな顔で微笑んだ。
「次までに、また美味しいケーキを用意するわね……あ、もちろん物語のことも、なにか考えておくわ」
須坂の言葉は嬉しいものだが、結局何の収穫もないまま、幸子は須坂の家を出る羽目となる。
外はやはり、蕩ける柿色の夕暮れが広がっていた。