坂道出版社へようこそ 3
「ああ、君は……道坂出版の社員さんかい」
ふかふかのタオルで服を拭う幸子を見つめながら、編集長と呼ばれた紳士がしみじみと呟く。
彼は幸子が首から外した社員証を、目にしたのだ。
少し寂しそうに目元を伏せたその顔を、どこかで見たことがある……と幸子はふと思った。
しかしそれがどこだったか、思い出す前に既視感は消えてしまう。
何故かこの場所は心地よく、夢のぬるま湯に浸かっているようなのだ。空気が柔らかく穏やかで、不法侵入したことさえ忘れてしまいそうになる。
なんて素敵なオフィスなのだろう。と、幸子はため息を押し隠した。
「……あの、もしかして、道坂出版の方ですか?」
「昔ちょっとね。ああ、名乗りが遅れて申し訳ない」
彼は幸子の言葉をごまかすようにふんわり微笑むと、机の上にチラシを一枚滑らせる。
それは透ける青の特殊紙で、金のインクで『坂道出版』のロゴ。そして外の看板にも刻まれていた『あなたの作りたい物語はなんですか?』の一文。
手にとるだけで、幸子はチラシの色に吸い込まれそうになる。まるで朝焼けとそれに浮かぶ月のようなチラシだった。
「僕は坂道出版の編集長、坂道というものです。あのクチの悪いのが弊社の校正、筆掛君。こちらの女性が、このチラシを作ったデザイナーの弁河君……ところで君は?」
「て……天神です。天神幸子と申します。道坂出版の……企画部2課に……」
暖かなタオルをきゅっと握り幸子はうつむく。
いつも名字を名乗っても、地名か駅名かと聞き返されるのでフルネームで応える癖がついていた。
しかしこんな水まみれ、書類まで散らかしておいて幸子もなにもあったものではない。
「すみません……雨にふられて道に迷って……」
幸子は力なく、つぶやく。
「ついつい入っちゃって……」
オフィスの奥では、すでに筆掛が仕事をはじめていた。声がうるさいのか、面倒くさそうな顔でこちらを見ている。
幸子にタオルを渡してくれた弁河といえば、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「迷子になったあげく、筆掛君にぶつかっちゃうなんてとんだ災難。あの子ちっこいから、見えなかったんでしょう? 気にしなくていいのよ」
「うっせえぞ弁河。てめえがデカ過ぎんだよ」
「いえ……あの」
3人の目線にさらされて、幸子の口からぽろぽろと真実が漏れた。
「……嘘です。すみません……扉、あいてて……つい興味本位で、中に入って……しまって……」
思わず深々と頭を下げる。べたりと顔に張り付く横髪が気持ち悪い。
「不審者で……あの……すみません」
「ところで、社では、どんなお仕事をしてるのかな?」
しかし坂道はそんな幸子の態度など、気にもかけない。きらきら輝く目で、幸子を見つめるのだ。
「いやね、道坂出版には昔、縁があったのだけど最近はさっぱりで……最近、あそこがどんな本を出しているのか分からなくてね。企画部2課といえば、確か1課と競い合ってる花形の部署だろう?」
彼は机に肘をつき、手であごを支える。そしてまっすぐ幸子を見て笑うのだ。
「君も小説に興味が……いや、失礼。出版社の人間に言うことじゃなかったね」
「私、その……しょ……小説の……あっ新人賞、新人賞の……選考……を」
ほろり、と、幸子の口から漏れたのは嘘の言葉だ。
せっかく真実を吐いた口が、再び嘘を吐き出している。
(小説なんて、嘘ばっかり)
タオルを掴む手が、痛いくらいにしびれる。
とはいえ、全くの嘘ではない。少なくとも1年前までは、そんな仕事をしていた。
(小説の仕事なんて……半年しか)
……思い出したのは職場の風景。
社内の一番奥のスペース、元はミーティングルームだった場所に急ごしらえで立てかけられた『企画部2課』のプレート。プリンターもスキャナさえないその場所で、生気無く働く先輩たち……。
「へえ、やっぱり花形部署じゃない、ね~え?」
「……なるほど。経験者、というわけか」
二人の楽しそうな声に、幸子の胸がちくりと痛む。
嘘は一回つけば、だるま式に膨れ上がる。
だから嘘だけは駄目だ。
小さな嘘から大きな嘘へ。
嘘は自分の体を傷つけるナイフだ。
嘘をつき続ければ、やがてナイフで身を覆われて、どっちに転んでも傷つく羽目になる……と言っていたのは祖母だ。
祖母は幸子が何をしてもおおらかに許してくれたが、嘘だけは絶対に許してくれなかった。
天国の祖母に謝るように、幸子はきゅっと俯いた。
「あの、実は」
「どうだろう。忍び込んだお詫び……というのは言い方が悪いが……君が手空きなら、ちょっとお使いに出てもらいたいんだが」
しかし幸子の声は、坂道によって防がれた。
見上げると彼は満面の笑顔で幸子を見ている。
「でも原稿、散らかして」
「こちらの先生は私の担当でね。大丈夫。ページ番号がなくても分かるから、直しておく」
彼は元気よく立ち上がると、奥の机からいくつかの書類を取り出し幸子に手渡した。
古臭い地図帳に、付箋が一枚。
著者プロフィールと書かれたA4の用紙一枚。
「実はね、今、執筆をお願いしている先生が居て、ちょうど今日お伺いする予定だったんだ。でも僕に少し用事ができてしまって……」
プロフィールに掲載されている顔写真は、穏やかそうな老婦人である。
その横には生年月日に名前に趣味が刻まれている。
趣味はガーデニング、ケーキ作り、読書。
書類をめくれば、いくつかの写真が載せられていた。
イギリス邸宅のような家で、美味しそうなケーキを前に、彼女は微笑んでいる。年齢は70歳か、それくらい。
「なにも難しい話じゃない。原稿の進み具合をきいて、もし悩んでいるようなら、書き方や物語の作り方なんかのアドバイスをしてほしい」
「でも、私、その、この……先生のこと、なにもしらなくて」
「……大丈夫。私達も何も知らないんだ」
坂道は、穏やかに微笑み幸子を見つめた。
「人間は誰でも、長い人生を歩んでいると……一度くらいは書きたい物語というものが降ってくる」
坂道は先程のチラシを見つめて、目を細める。
「書きたい……物語……?」
幸子はその文字を噛みしめる。
……幸子に作りたい物語は存在しない。
しかし、作ってみたい本はある。
「この会社は、依頼人の書きたい小説、書きたい物語をサポートする。依頼人がうまくその物語を紡げるようにね」
「自費出版……という」
「まあそんなものかな」
坂道はボロボロのマップを広げ、一箇所を、とん。と指で指す。
「ここが会社なので……裏口から出てもらって、右に折れる。イギリス風の素敵なお庭だからすぐに分かるよ」
書類をクリアファイルにまとめて、坂道は幸子の手を引いて立ち上がらせる。
「今日の依頼人は須坂あかねさんという淑女でね。どうしても書きたいものがあるようなんだが、それが見えてこなくて、迷われてるフシがある。僕が聞いても弁河君が聞いてもうまく聞き出せなかった」
坂道の目の色は深い。
「……君がここに来たということは、何かの縁だ。人の縁、物語の縁。僕たちみたいな職業の人間は、縁を大事にしなければね」
そして、深く優しい声だった。眠くなるような、柔らかい……。
(やっぱりここは……夢の世界みたいだ)
柔らかく、温かい。坂道はその優しい声で、幸子の持つ書類をとん、とつついた。
「迷いと導きは表裏一体だ。迷子の君なら須坂さんから物語を引き出せるかも」
「やって……みます!」
だから、幸子は思わずそのマップを抱きしめていた。入社して一年。こんな瞳で仕事を振られたことは、一度もない。
「行きます。行かせてください」
「また編集長ったら、人に仕事を押し付けるのは天下一ねえ」
勢いよく立ち上がると、弁河がころころと笑い、筆掛が睨むように目を細くする。
しかし、坂道だけはしっかりと幸子を見ている。それは信頼の目だ。
出会って5分しか経っていないが、この目は信用できる。そんな気がした。
「あと一つだけ注意をしてほしいのは、よそ見をしたり、迷子にならないこと。目的地までまっすぐにいくこと、いいね?」
「はい……あの、そうだ。傘を借りてもよいでしょうか、外は雨で」
「雨?」
外の雨を思い出し、幸子は駆け出しかけた足を止める。が、そんな幸子に三人は、不思議そうに顔を見合わせる。
そして三人は、同時に言った。
「雨は降らないよ」