坂道出版社へようこそ 2
幸子の目前は、闇。そして無、だった。
(結構……階段……長いな?)
呼吸を整えながら幸子はひたすら、階段を下り続けている。
雨の音は階段室に入ってすぐ、聞こえなくなった。
外からの光も、最初の10段で消えてしまった。
おかげで行く先は闇で、音もない。
何段あるのか、分からない。
階段室は湿度が高く、顔や体に湿気がまとわりつくようだ。
(もう10分以上……下ってる? いや、まさかそんな)
後ろめたさがそう感じさせるのか、いつまでも下に到着しない。そんな気がする。
「……わっ」
勇気を振り絞ってもう一歩進むと、突然、天井にあかりがぽわっと灯った。
それは桃のような形をしたライトである。一歩進めば、左側のライトも灯る。動きを察知して付くタイプのライトのようだ。
こんな古い建築物にしては、近代的なものだった。
(人に見つかったら……社員証をみせよう。そうしたら多分、大丈夫……だって一応、私だって道坂出版社の社員だし……)
どくどくと心臓の鼓動がうるさい。手に汗が滲み、雨に濡れたスカートが足に絡みつく。
それでも一歩、前へ。
この先に、何があるのか……最初はただの好奇心だった。
真っ暗な先を見つめ、幸子は湿った拳を握りしめた。
(ここで……戻ったら、諦めたら、だめな気がする)
震える自分を叱って、もう一歩、前へ。
「……あ」
いつまで続くのかわからないその階段は、ある瞬間で不意に途切れた。
(ついた)
階段の先には、巨大な扉が一枚。
まるでそれは、石か岩のような無骨な扉だ。取っ手があるので、なんとか扉だと認識できた。
人間一人分ほど開かれた扉から、淡い光が漏れている。
抜き足差し足近づけば、中からコーヒーの香りとコピー機のような機械音が聞こえてくる。
(……オフィスだ)
こぽこぽと聞こえる水の音は、ウォーターサーバーか水槽か。
案外普通のオフィスのような雰囲気に、幸子は少しばかりがっかりした。
(物凄い秘密がありそうだったのに)
……そう、幸子の気が緩んだ瞬間、背後の階段から足音が聞こえた。
こん、こん、こんと、階段をリズミカルに下る音。へたくそな鼻歌。すぐ背後に人の気配を感じ取り、幸子は思わず悲鳴を噛み殺す。
慌てて扉をすり抜けオフィスに侵入すれば、そこには天井まで届く棚がいくつか見えた。
幸子はとっさに、一つの棚の隙間に滑り込む。
(……逃げずに社員証、見せたら良かった)
悔やんでも、もう遅い。こうなれば隠れ続けるしかない。
思わず逃げ込んだ棚に体を押し付けて、幸子はぐっと奥歯を噛みしめる。
それは天井まで届く移動式の棚だ。中には黄ばんだ書類や古い本、その間には透明のクリアファイルが乱雑に突っ込まれていた。
棚の隙間から室内を覗き込めば、そこに見えるのは狭いオフィスである。
向かい合わせになったオフィス机が2つ。奥には編集長の席なのか大きめの机が1つ。
(3人の……部署なのかな?)
机のそばには大きなプリンター、観葉植物。天井には細長い、蛍光灯、ウォーターサーバーに赤いコーヒーメーカー、3つのカップ。
窓こそ無いものの、どうみても普通のオフィスだ。
部屋の奥では誰かが忙しく動き回っている気配がある。どこにも部署名が入っていないが、ここも道坂出版の一部署なのだろう。
正体を見てみれば、なんてことはない。ただのオフィス。安堵半分、がっかり半分。
気分散漫となった幸子は、後ろに差し迫る足音の主のことを、うっかり忘れていた。
「ちょっと」
もう帰ろうと体をひねった瞬間、背後から急に声をかけられたのである。
「あんた、だれ」
「わっ」
急なことに驚いた幸子は、思わず飛び上がる。確認もせずに足を後ろに踏み出したせいで、誰かの柔らかい足を思い切り踏みつけた。その人物は幸子の攻撃に弾かれ呻いて尻餅をつく。
急いで振り返れば、幸子の真後ろで若い男の子が一人、目を白黒させてうめいている。
ぶつかったせいだろう。彼が手にしていたと思われる書類は宙を舞い、地面にきれいに広がった。
「だ、大丈夫ですか、すみませ……」
慌てて体勢を立て直すも、幸子の尻が棚に直撃。
棚に中途半端に刺さっていたボックスの一つが崩れて、中に入っていた書類が勢いよく滑り出して床に散らばる。
たった数秒で、幸子の足元は書類の海が広がった。
「す……すみませんっ」
単調な灰色の床に、書類がばらまかれた……棚から崩れ落ちた書類と、後ろの人物が持っていた書類、二種類の書類が。
それは、一気に混じり合って床一面が、書類の海。
そんな書類の海の向こうで、一人の男性がうずくまり足を押さえて呻いている。
一瞬で出来上がった惨状を前に、幸子は顔を真っ青にして床にはいつくばった。
「け、怪我してないですか、すみません……あ、拾います! すぐに!」
床に散っているのは手書き原稿のようだ。よくいえば達筆、悪く言えば悪筆。
そんなものが何十枚も散らばっている。
「えっと、えっと混じって……すみません、すぐっ! すぐ揃えますから!」
手書き原稿の下に広がっている書類は、尻餅をついた人物が取り落したものだろう。
「あーもう。さいっあく! 汚れたらどーすんだよ」
ようやく痛みから回復したと思われる尻もち男性は、苛立ちを抑えきれないように声をあげた。
それは、まだ若い……幸子よりも幼く見える人物。
背は幸子より低く、全体的に華奢だ。
ぼさぼさの髪はひとくくりにしてあり、まるで筆の先のような固まりが頭の後ろからぴょこんと飛び出している。
神経質そうな細い顔に、似合わない無精髭。ダブダブのパーカーとジーンズ&スニーカーというラフな格好なので、まだ学生なのかもしれない。
「もういい。触んないで。俺が集めるから」
彼は大きな舌打ちをして、自分の書類だけをかき集めている。
幸子も慌てて書類をかき集めるが、一枚、手にとってそれに目を奪われた。
(……これ、ゲラだ。小説?)
彼が落とした書類は、校正刷とも呼ばれるものだ。
小説をはじめ、出版物の原稿に朱書きを入れたもの……と言葉は簡単だが、その書き方は校正者や会社によって微妙に変わる。
ルールは唯一つ。朱書きという言葉の通り、赤文字で書かれている……ということである。
(びっしり朱書きが入ってる……)
幸子は手にしたゲラを、まじまじと見つめた。
出版業界に身をおいて1年と少し、幸子もそれなりに多くの校正を見てきた。
社内の校正者による朱書き、外注先から上がってきた朱書き。そして自分の朱書き。
……しかし、今、目の前にある原稿はただ、ただ美しかった。
幸子は男性のことを忘れ、夢中にゲラを見つめ続ける。
(これ、本職の……校正さんの朱書きっぽい。じゃあ、この人、校正さんなのかな)
まず、幸子が魅入られたのは、字だ。
赤で描かれた、美しい文字。
はっきりとした、読みやすい文字。
第2に分かりやすい。目を通して一瞬で理解できるくらい、朱書きが整頓されている。
……そして何より、原稿外に丁寧に書き込まれた文字が幸子の心を打つ。
それは作者に向けての疑問点の羅列だ。つまり、この校正者は原稿としっかり向かい合っている。
ひと目で分かる……この校正者のレベルは、相当に高い。
「何読んでんだよ、それ返せよ」
「こ……これ、あなたが校正したんですか?」
「だから何だっての」
「いや……すごく、丁寧で……感動しちゃって……」
幸子の言葉に、彼の目が大きく見開かれ……大急ぎでその表情が隠された。
わざとらしく咳払いをすると、彼は自分のゲラ刷だけをさっさとまとめてクリアファイルに閉じる。
「これ、どうすんの」
そう言って、彼が指差したのは、ゲラの上に広がっていた、生原稿。
そちらは、彼のゲラと違って手書きの乱暴な原稿だ。
パソコンが普及して以来、とんと見かけない手書きの原稿……大御所感漂う……生原稿。
それを見て、男性はわざとらしくぴょん。と跳ね上がった。
「あーあ。先生の生原稿ぐっちゃぐっちゃ。しーらね」
「え、あ、いや! これ、すみません、すぐ直します!」
「この先生さあ、わざとノンブル振ってねえの。編集者ならページ番号、なくても分かるだろって意地悪でさ。番号わかんねえのに、順番戻せんの? 俺、先生に言いに行くのやだからな……あ、編集長ぉ、この不審者が棚から原稿落としちゃってえ」
青年は口が悪い上に頭の回転も早そうだ。幸子が言葉を一つ考えている間に、10の言葉が降ってくる。
挙げ句、大声で社内に向かって大声で叫ぶ。大急ぎで原稿をかき集める幸子の上に、淡い影が静かに広がった。
「筆掛君? どうしたんだい?」
かつん、と革靴の音が響く。恐る恐る幸子が顔を上げれば、すぐ目の前に洒落たズボンときれいな革靴が見えた。
幸子は原稿を握りしめたまま、処刑台にでも登った心地で頭を下げる。
不法侵入。器物損壊。そんな言葉が幸子の頭にわっと広がる。
「あ……の……お邪魔してます……」
……幸子の目の前に立ったのは、白髪交じりのダンディな男性だ。
年の頃は60そこそこか。優しそうな目元に、白髪交じりの自然な髪の色がよく似合っていた。
顔には皺こそあるものの、脂ぎっていないせいで若々しい。深い茶色、タータンチェックのスリーピーススーツ。明るいグリーンのネクタイに、ポケットから見える白いハンカチ。
わざとらしいほどの格好が不思議と似合う。
「おや、可愛らしいお嬢さんの訪問だね」
彼は素早く腰を落とすと、幸子の手を取りゆっくりと立ち上がらせた。
「筆掛君。お嬢さんを床に這いつくばらせて、なんてことをしてるんだ」
「違う! そいつが! 棚から原稿落として、勝手に拾ってんの!」
「だから君はもてないんだ……失礼、お嬢さん。顔が濡れているよ」
驚くほどに紳士的なその『編集長』は優しく微笑んで、きれいなハンカチで幸子の顔をおさえる。
「うちの子は口が悪くて申し訳ないね……ところで僕は今日、可愛らしいお嬢さんと何かアポをとっていたかな?」
「あらぁ、びしょ濡れじゃないの」
気がつけば彼の背後には、もうひとりの女性。
すらりと背の高いグラマラスなその人は、ピンク色の唇を押さえながら大げさに騒ぎ出す。
「まさか筆掛君、この子に水をかけたの?」
「俺じゃねえよ」
「あなた、精神集中で墨をすってるじゃない。あの水をかけたんじゃないの?」
「かけてねえって」
女性は瞳を半目にして男性……筆掛を睨む。紫色のきついアイシャドウが不思議と似合う、驚くほどの美人だった。
彼女はその美しい顔に満面の笑みを浮かべて、幸子をじっと見つめる。
「女の子が体冷やすなんてよくないわ。こっちへどうぞ、お嬢さん」
かくして幸子は、不思議なオフィスに招かれることとなってしまったのである。
それは、豪雨の午後。都内で最高気温37度を記録して『今世紀最熱の梅雨』と呼ばれた日のことだった。