坂道出版社へようこそ 1
幸子の人生は、妥協と諦めの連続だ。
(……そういう歌、あった気がするなあ)
幸子は雨で濡れたスカートの裾を絞りながら、心の中で愚痴をこぼす。
(古い昭和の歌謡曲とかで……)
幸子の目前は、天気予報大外れのゲリラ豪雨だ。
まだ6月だというのに、今日は30度超えの真夏日を更新。大粒の雨が大地を叩いて、目の前は真っ白に煙っている。
突然降り出した雨の中、多くの人が右往左往。幸子と同じようにあちこちの軒下に固まって、不安そうな顔で空を見上げていた。
しかし、幸子が逃げ込んだこの軒先は一人だけ。おかげでちょっとくらいスカートを捲りあげても、気にならない。
(朝のテレビのお天気お姉さん、今日は梅雨の晴れ間で一日晴れるって……)
びしゃびしゃに濡れてしまったのは、お気に入りのプリーツスカートだ。
裾を絞り終えて幸子はため息をつく、その瞬間を狙ったように目の前を急発進の車が滑って行った。
ちょうど目の前にあった巨大な水たまりがタイヤに弾かれて、泥臭い水が真正面から幸子を襲う。
(……なるほど)
頭から水を滴らせながら、幸子は呆然と過ぎ去る車を見送った。急発進すぎて、ナンバープレートもチェックできない。
馬鹿野郎。と怒鳴るにはタイミング的に遅すぎる。
道の向いで雨宿りするサラリーマンが、憐れむような目で幸子を見つめていた。
(……だから誰もここで雨宿り、しないのか……)
雨を……というより、人の目を避けるように幸子はじりじりと建物沿いに移動する。
昔からこうだ。幸子は微妙な不幸に付きまとわれる。
亡き母曰く、幸子が生まれ落ちた瞬間に大雨と雷が降り落ちたという。
医者含め全員がそれに気を取られたせいで、幸子は危うく地面に落下しかけ、看護師の滑り込みで享年0日30秒になるのはぎりぎり免れた。
亡き父も、幸子を膝に乗せて嘆息したものである。
生まれた翌日、新生児室が雷のせいで停電となり子どもたちは全員別室に移された。
だというのに、幸子だけ行方不明。どうやら真っ暗な新生児室で一人忘れられ、おぎゃおぎゃ泣いていたのだという。
……この子は雨女にして生まれながらの不幸体質。
そう、案じた両親によって付けられた名前は幸せの幸子だ。
名前のおかげか幸子の人生は風邪一つひかない健康体、家内安全。無事故無違反。
優しい両親は早世してしまったものの、おおらかな祖母のもとで受験戦争も就職難も乗り越えた。
そして、社会人となって2度目の梅雨を迎えようとしている。
(パッと見は、順調……なんだよなあ……)
幸子は雨の染み込んだ靴を見ながら、ため息をつく。
順風満帆……とはいかないが、なかなか及第点の人生だ。しかし、昔から小さな不幸にはちょくちょく襲われる。
そのせいで、昔から妥協と諦めだけは得意だ。
諦めてしまえば、些細な不幸は平然と乗り越えられる。
(こんなところでも不幸体質か……)
幸子は地面に広がる水たまりから逃げるように、軒下を伝って建物をぐるりと廻る。そしてふと、幸子は気がついた。
「あれ?……ここって」
幸子が雨宿りに使っていたのは、赤レンガ造りのモダンな建物だった。
いかにも重要文化財でござい、といった形のもので、石でできた窓枠には洋館風の装飾が施されている。
壁には唐草模様の縁飾り。2階の窓にはシックな色合いのステンドグラス。
壁面バルコニーはきれいなアーチ状のレリーフ。
吊り下げられた、すずらんのような形のランプも素敵だった。
眺めながら建物を一周すれば、正面玄関にたどり着く。獅子の顔で作られたドアノッカーがついた扉は重厚な木製で、薔薇や百合をモチーフにしたと思われる彫り物が施されている。
そんな扉の上にはアーチ状の石版があり、そこにはアンティークなフォントで『道坂出版株式会社』と書かれていた。
「やっぱりここ、道坂出版の旧社屋だ……」
幸子は自分の首にかかった社員証を、ちらりと見る。そこには笑顔満点の自分の写真と、道坂出版のロゴが刻まれていた。
多くの出版物を手掛ける道坂出版は、戦後すぐに誕生し今にまで続く老舗出版社の一つである。
小さな頃から本が大好きだった幸子は、就活ではここ一つに絞った。就職浪人してでも、この出版社に入りたかった。
その執念が実ったのか初年度で内定をもぎ取り、入社が叶って一年と数ヶ月。
「……研修のとき見学にきたなぁ……」
目の前にある赤レンガの建物は、大正時代に社交倶楽部として作られた、と説明を受けた。中にはダンスホールなども設置され、モダンで瀟洒な建物だ。
「はあ……」
幸子は雨に濡れたまま、ぼうっと建物を見上げる。なんてきれいな建物なのだろう。
「やっぱり、綺麗。こんなところで、仕事したいなあ……」
道坂出版初代社長は、没落華族の出であったらしい。この建物は彼の祖父母の持ち物で、幸いにも戦火を免れた。
ここが出版社として使われていたのは何年かの間だけで、その後には数度の引っ越しを経て、今では大きな自社ビルを構えているが。
そして元社屋といえば、文化財に指定され保存されている。それを証拠とするように、青銅色の「有形文化財」の看板が燦然と輝いていた。
今では年に一度の一般公開と新人研修以外で開かれることは、まずない。
しかしオフィス街の真ん中にどん、と残る赤レンガは非常に目を引く。
どんなに周囲が新しくなっても、この場所に近づくだけではるか昔にタイムスリップしたような、そんな気持ちになれるのだ。
「戻らなきゃ……」
名残惜しく建物を眺めていた幸子だが、やがてため息をついてカーディガンを頭に乗せる。ここから本社ビルまで徒歩5分。
思い切り駆け抜ければ、2分半。それほど濡れずに済むはずだ……そう肝を据えて駆け出そうとした、その時。
「あれ?」
幸子は、見覚えのないものを見つけてスタートダッシュの足を止める。
「あなたの……作りたい物語はなんですか……?」
よく見れば、玄関の端に小さな看板が立てかけられているのだ。
そこには一文、さらりとした文字が書かれていた。
『あなたの作りたい物語はなんですか?』
看板には坂道出版、とロゴまで入っている。道坂とは文字が逆。何か関わりがありそうで、なさそうな……。
(この書き方……自費出版の会社? うちの子会社かな? こんなところに?)
看板を覗き込んで、幸子は首をひねる。
(子会社がここに入ってるなんて……聞いたこと、ないけど……)
きい。と、小さな音が響き、幸子はつられるように顔を上げた。
……玄関扉の隣には背の高い鉄格子で一角が区切られている。
鉄格子と言っても、ホワイトリリーモチーフの洒落たものだ。西洋のお城のようだな、と幸子の好奇心が疼く。
(普段、錠前で閉じてるのに)
古びて赤錆の浮いた鉄格子は普段、大きな錠前で閉じられているはずだった。
(……今日は、開いてる)
幸子はそっと、鉄格子に近づいて触れてみる。
(たしか……この先は地下室の階段室……地下室は使ってないから、ずっと閉じてるって)
まだここが本社であった時代、実際のオフィスは地下にあった。
活版機や印刷専用の職人も雇用し、新聞社にも遅れを取らないレベルのオフィスだった。と、幸子は社史で読んだ。
昭和の高度成長時代には地下のオフィスは取り払われ、すでに空っぽ。だからここの錠前は長い間外されたことがない……と、研修担当は言っていたはずだ。
しかし今、鉄格子の扉は少しだけ空いていた。かすかに開いた扉は雨と風に揺さぶられている。
(この奥は……地下につながる階段?)
そっと隙間を覗き込むと、暗がりにぼうっと階段が浮かび上がっていた。
金属の古びた階段だ。それは地下へと続いている。その先は、闇一色。
音もない。香りもない。静かで、冷たくて……なぜか懐かしい。
大昔、祖母の家で覗いた土蔵の奥。そのドキドキ感によく似ている。
(あの時も、たしか……急に扉が開かなくなって……一晩、閉じ込められたんだっけ)
不幸の思い出は一晩あっても語り足りないほどだ。
古い記憶を思い出し、幸子は苦笑する。もう大人だ。閉じ込められるなんて、そんな情けないことにはならない……多分。
「……雨だから」
雨宿りに。言い訳のようにつぶやいて、幸子はそっと階段に足をつける。
「お……おじゃましまーす」
壁は冷たく、空気は澄んでいた。先は見えない。
重要建築物の地下へ続く道は階段というよりも、その名の通り、坂道のようだった。