第二十六話 アローラの森からペペの村へ
ヘイズが魔法で出た先は大きな沼の畔だった。
沼からぽこぽこと不気味な泡が立っている。
水面は澄んでいて虫一匹いない。鳥の声も虫の声もせず静かだった。
ただ、遠くから樹を伐る音が聞こえていた。
マリアが強張った顔で注意する。
「ここは毒の沼地です。水を飲んではいけません。飲むのなら樹を傷つけて、樹液を飲まねばなりません」
振り返ると森が広がっている。
森の木々は鬱蒼としていた。森からは魔力が滲み出ている。
「ここは毒の沼地とアローラの森の境界です。アローラの森の中にはダーク・エルフ最大の都スンニドロがあります」
ポンズ地方は人間に制圧された。なら、最大の拠点が無事に残っているとは思えない。
「マリアはどう思う? スンニドロの都は無事だと思うか?」
悲し気な顔でマリアは首を横に振った。
「森から外敵を拒む結界が消えています。スンニドロはもう存在しないか、行っても人間が居座っているでしょう」
「マリアがスンニドロに住んでいたとする。スンニドロが陥落したらどこへ行く?」
「森の奥の村でしょうか。でも、スンニドロが落ちたら、森の近くの村も残ってはいないでしょう。かなり遠くまで行かねばなりません」
ヘイズが魔法の地図を出して確認する。
南西に百五十㎞にあるスンニドロは、人間に制圧された印が付いていた。
だが、南東に百五十㎞行った場所のペペの村は地図上では、人間に制圧されていなかった。
「まだ、ペペの村は人間の手に落ちていないようだな。ペペの村は知っているか?」
マリアは首を横に振った。
「私の住んでいたメローナ村は森の入口の北側にありました。ペペの村とでは距離があり過ぎるので、行った経験がありません」
「ペペの村まで行くしかないか。行けばまだダーク・エルフたちの生き残りがいるかもしれない。いれば情報が聞ける」
ヘイズは鞄から帯状の丈夫な紐を取り出す。
「歩いていては時間が掛かる。空から一気に行くぞ」
ヘイズは宙に浮くと体に紐を掛けてマリアを運べるようにする。
マリアは紐に腰掛け掴まる。
普通のインプであれば、子供のダーク・エルフを運ぶ作業は難しい。
だが、ヘイズは別だった。マリアを紐に乗せ悠々と空を飛ぶ。
飛ぶ速度も時速二百㎞まで出せる。だが、落ちたら危険なので時速五十㎞にした。
紐に掴まり空を飛ぶのはマリアにとって初めての経験だった。
最初は掴まっているのに精一杯で話す余裕がなかった。
されど、一時間もすれば慣れたのか話す余裕ができた。
「ヘイズ様。空を飛ぶなんて初めての経験なので、少し怖かったのです。ですが、飛べると、こんなにも気持ち良いものなんですね」
「普通のインプにはできない芸当だから秘密だぞ」
「わかりました。それで現地に着いたらどうするのです? ヘイズ様は誰かの使い魔として契約されるのですか?」
「いや、今回、出遭う奴らと使い魔契約をするのは危険だ。そうだな、いっそ、表向きには俺がマリアの使い魔を装うか?」
「そんな。私には無理ですよ」
マリアが乗り気なら、表向きの主人と使用人の立場を入れ替えても良かった。
だが、無理だと断るなら、無理強いはできない。
マリアのような子は自信が持てないと失敗する。
「なら、こうしよう。俺はインプの商人で召喚水晶を売りに来た。マリアは俺の召使だ。それなら、どうだ?」
「わかりました。今まで通りって状況ですね。それなら問題ありません」
ペペの村から三十㎞の地点で森に下りる。
「ここから徒歩で行くぞ。罠と人間に気を付けろ」
「わかりました。ペペの村に行きましょう」
暗い森の中を歩く。インプもダーク・エルフも、僅かな光があれば闇を見通せる。
視界の暗さは気にならない。ヘイズの予想した通り、森には侵入者を阻む罠があった。
落とし穴や襲ってくる樹を避けながら慎重に進む。森では鳥や虫の声がする。
だが、音は小さく、消えいりそうに小さい。
おかしいな。夏のこの時季はもうちょっと虫や鳥が活発に活動しても良さそうだ。
マリアが不安な顔で語る。
「森が何かおかしい。まるで、アローラの森ではないみたい」
「人間のせいか?」
マリアの表情が暗く沈む。
「もし、人間のせいなら怖い。森の魔力より強い力を持った人間なんて、どう逃げたらいいのか、わかりません」
夜になる。少し開けた場所に杏の木があった。杏の樹には果実がなっていた。
「こんなところに杏がなっている。食べられるのかな?」
「食べられますよ。私たちダーク・エルフは、森の中に食べられる実がなる樹をこうして植えるんです。そうして、村や街に行く間の目印兼休憩所を作るんです」
マリアと交代で眠る。朝に杏の実を食べてペペの村を目指した。
太陽の光が強く差し込む場所が見えてきた。森が開けている場所が先にある。
「人間がいると厄介だ。俺が先に行って見てくる。マリアは隠れていろ」
「お気を付けて、ヘイズ様」
影から影へと飛び、ペペの村に向かった。
村は森の中にぽっかりと空いた半径四㎞ほどの空間に作られていた。
木造の家屋と小さな畑がいくつも見えた。
家の数は百五十軒ほど人口にして三百から四百人が暮らす村か。規模としては小さいな。
村には塀がなく、魔法の防壁もない。簡単に侵入できた。村は静まり返っていた。
人っ子一人いない。血の匂いもしない。死の気配もない。
村人が虐殺された、または捕虜として連れていかれた可能性はなかった
人間に最大拠点を落とされたから、もっと奥へと逃げたのか?
一軒の家を調べると、中には食料が残されていた。また、僅かだか金銭も残っていた。
人間がやって来るのに食料を残しておくとはおかしいな。
金を持って逃げない対応も腑に落ちない。
村で一番大きな家に入る。食べかけのパンがあった。
パンに黴は生えていないので、それほど日数は経っていない。
なんだ、この村は? まるで、村のダーク・エルフが一夜にして忽然と姿を消したようだ。
上空から魔力感知を使う。村をすっぽりと収める巨大な魔法陣の反応があった。
何かの儀式がここで行われた。だが、集団転移でどこかに飛んだにしては妙だ。
出掛ける手順が踏まれていない。ヘイズと反対側から村に入ってきた奴がいた。
遠見の魔法で探る。相手は鰐の顔と強靭な体を持つ種族のカイマン人だった。
カイマン人は戦用の金属鎧を着て大きな剣を背負っていた
カイマン人の武人か。ヘイズは様子を注視していた。
武人は村の倉庫を確認したのち民家を捜索していた。
どうやら奴も村の異変に戸惑っているようだ。
ヘイズはゆっくり高度を下げて、見晴らしのよい中央広場に降り立つ。
武人が家から出てくる。武人はすぐにヘイズを見つけと寄ってくる。
武人は武器に手を掛けていない。だが、顔には警戒の色が滲んでいた
「お主、ダーク・エルフの使い魔か?」
「いいえ、私の名はヘイズ。行商でこの村に商売に立ち寄ったのです。ところが、誰もおらず首を傾げていた次第。皆さんは、どちらに行かれたのでしょう」
「俺の名はガガタ。傭兵だ。村から届くはずの物資が届かず様子を見に来たところだ」
「物資はあったのですか?」
「あった。だが、ダーク・エルフが消えている。馬も牛もだ。鶏や犬すらいない」
生きている者は皆どこかへ連れて行かれたか。
パンに黴が生えていなかった点から、異変はここ二、三日で起きたな。
「それは、妙ですな。私はてっきり逃げ出したのかと思いました」
「逃げるのなら、俺たちのいる隠し砦へ逃げてくる」
「でも、人間に連れて行かれたにしては戦闘痕がありません」
ガガタも不思議がった。
「そうだ。だから俺も首を傾げている」
「弱りましたな。せっかくの商品が無駄になりました」
ガガタがじろりとヘイズを見る。
「商品と言うが何も持ってきておらぬではないか。それとも、その鞄の中に入っているのか」
「いいえ、鞄の中身は完全な私物です。商品は使用人に持たせています。村に人間がいて奪われると危険ですから」
「ちなみに何を売りに来た? 兵糧か、薬か? どちらも不足して困っている」
「召喚水晶を一個、持ってきました。これで、イフリータが呼べます」
ガガタは、すぐに決断した。
「よし、召喚水晶なら俺たちが買おう」
「いいですけど、お高いですよ。悪魔大銀貨で二十枚です」
「それは高いな。イフリータなら森が延焼する危険もある。おいそれとは使えん」
値切って来たか。当然の対応ともいえる。
「使い方次第でしょうね。上手く使えば、人間を火計で焼き殺す戦術ができます」
「まあいい。とりあえず、使用人を連れ従いてきてくれ。話は隠し砦でしよう」
ヘイズは空から近づいてくる何かの気配に気が付いた。
空を見上げると、黒い点が見えた。
「どうやら、そう簡単に行かないようですね」
ガガタも厳しい顔で武器に手を掛ける。
「人間の兵器か? こんなところにまでもう来やがったのか」




