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黄金の武将  作者: ほうこうおんち
3/3

其の参

慶長二十年、この年は春先により不穏であった。

東西の和睦が成ったのだが、代わりに大坂城は全ての堀を埋められた。

この件は右大臣豊臣秀頼も、後見たる織田有楽斎も納得していたとされる。

しかし、牢人たちは「これでは籠城が出来ぬ」と激高し、堀を再び掘り始めた。

この激高した牢人たちに、大野修理の弟・主馬正治房も加わった。

和議を受け入れた兄を襲い、大いに気炎を上げた。


南部の光武者もこの祭りに乗じた。

堺に行ってその黄金を見せびらかし、鉄砲数百挺を造らせた。

その派手さは駿府・江戸そして南部に聞こえた。


この時より大坂の戦は牢人たちに乗っ取られたと言えよう。

冬の陣は豊臣家の生き残る為の条件闘争であった。

それ故、戦の形を取って、双方落ち着く形にする必要があった。

巨大な大坂城が堀を失い小さくなるならば、大御所徳川家康としては孫娘婿をそのまま大坂に置けた。

そして一門の大名として、母を江戸に置き、参勤してくれたらそれで良かった。

将軍秀忠には別な思惑があったのだが、事態はその秀忠の思惑を後押しした。

牢人は戦の無くなる世を嫌い、ここで華々しく死ぬる思いであった。

死なずとも勝てば良く、乱世が続く事を願った。

そして、それでは総大将も外交役も不要であった。

豊臣秀頼という神輿を担ぎ、崖に向かって駆け出すまでだった。

居場所を失った織田有楽斎は城を退去した。




東西手切れが近づく頃、不来方城に大御所よりの使者が来た。

出陣命令を望む南部利直が聞かされたのは、不愉快な命令であった。

「南部信濃守、その方大坂表での戦に出陣無用。

 国許において別命あるまで待機せよ」


利直は問うた。

此度こそ不愉快な北十左めを戦において討ち取り、汚名を晴らさん。

その利直に使者は伝えた。

「南部左門なる者をご存知か?」

「????」

「では福士左門なら如何に?」

「それなるは、かつてはそれがしの小姓を勤めていた者。

 粗相があり、奉公構えにしたのだが、それが如何に?」

「大坂におります」

「は?」

「南部十左衛門といい、南部左門といい、南部のご家中は大坂によくよく居られる模様」

「お待ちあれ。いずれも罪を得て出奔せし者。それを以て南部家への疑いとなさるか?」

「ともあれ、大御所様は信濃守殿に此度は出陣ならぬと仰せである。

 昨年の大坂への推参は大目に見るゆえ、此度は決して動くなとの事である」

利直は悔しさに唇を噛んだ。

昨年の参陣も「推参」、即ち呼んでもいないのに陣借りに現れた牢人と同じ扱いをされたのだ。

「十左め、左門め、許してはおかぬぞ…」

彼は呪詛を吐いていた。




大坂夏の陣と呼ばれる戦において、南部信景の足跡は辿れない。

後藤又兵衛らが激しく戦い、討ち死にしていった中、信景はどこで何をしていたのか?

分かっている話は、南部左門についてである


-----

堀内氏久は大坂城落城に際し、南部左門や刑部卿局らと共に豊臣秀頼の正室・千姫を護衛して

徳川方の坂崎直盛の陣に届け、そのまま直盛に従って千姫を徳川家康の本陣まで送り届けた。

-----

南部信景もこの中に居たのかもしれない。


そして合戦が終わり、南部左門は許され、駿府に置かれて徳川頼宣に三百石で仕えることとなった。

だが、これに抗議をして来たのが南部利直であった。

「福士左門は奉公構えを出した者であり、南部家に対しても罪を働いた者である。

 直ちに召し抱えを取り止め、当家に身柄をお渡しいただきたい」


大御所家康は困った。

孫娘を落城の困難の中から守り抜いてくれた者を、今更過去の罪で南部に引き渡したくない。

南部信景が言った。

「儂が出て行こう。御当代の恨みは、儂に強く左門のは左程でも無い。

 儂一人にて左門が生き永らえるならば、それで良い。

 なあに、儂は冬の陣で徳川方に文字通り弓を引いた。

 打ち首覚悟が、このように厚遇されるとは忝い。

 なれば儂が人身御供となるゆえ、左門の事は宜しくお願い申す」


かくして南部十左衛門信景は南部家に引き渡され、数年ぶりに故郷の土を踏む事となった。





八月十日、南部信景は北十左衛門として刑場に引き出された。

「十左、久しいのお」

南部利直が睨みつけながら言葉を交わした。

「御当代も健やかなようで、恐悦至極」

「皮肉を申すな! その方のせいで、儂は如何程苦しんだのか、知らぬとは言わせぬぞ!」

「おや、左様でしたかな?

 確か冬の陣の折は、呼ばれてもいないのに勇ましく駆け付けたは良いが、

 家中の者が参陣を嫌がって蝦夷地の者を代役に立て、その者たちが鉄砲に驚いて逃げたとか、

 参陣する家では妻子が涙ながらに見送ったとか、

 儂の仕えた家としては誠に恥ずかしい話しか聞かなかったがのお。

 儂の弓矢は東西に南部を名を高めた、左様に思っておるぞ。

 『南部の光武者』と呼ばれた儂こそ、ご先代様の名を辱めぬ忠義を果たしたのだ」

「黙れ…」

利直は低くそう言った。

「最早何も聞かぬ。そなたは台切引に処す」


台切引とは、指を一本一本切り落としながら殺していく処刑法であった。

信景は薄ら笑いを浮かべ、その後は口を閉ざした。


処刑は、利直に命じられた小者が行った。

手足の指を一本、また一本と切り落とし、周囲には血が滴った。

小者は思わず信景の顔を見た。

「何を脅えておる。しっかり切らんか!」

「ひいっ…」

処刑している者と、されている者の肝の差がそこにあった。


「十左、そなたはまだ恐れぬのか? 儂に向かって命乞いをせぬのか?」

「見苦しい! このように死に赴く者に、見苦しく命乞いをせよとぬかすとは、

 それでも名門の当主か?」

「おのれ…」

利直は遂に怒りで我を忘れた。

今まで、腹に怒りを貯めてはいたものの、それを表には出さずにいた。

…周囲から見たら激怒しているのは丸分かりだったにせよ。

それがついに、自ら弓を取り、北十左を射た。


「ぐ………」

矢は十左の胸に突き刺さった。

雁股かりまたという、二股に分かれた鏃を使った矢である。

狩りにおいて、鳥の足を射切るものである。

「どうじゃ、痛いか、苦しいか!」

「喚くな…」

血を吐きながら十左が返した。

「ふむ、矢の腕は中々良いのぉ。まあ、儂には負けるが」

「まだぬかすか!」

二本目の雁股の矢が十左の胸に深々と突き刺さった。

「どうじゃ十左、これでも儂を莫迦にするか、どうじゃ!」

返事は無かった。二度と…。


南部信景こと北十左衛門も首はそのまま捨てられ、鷹が食うに任されたという。




南部利直はその後も、南部左門の引き渡しを徳川家に求めた。

しかし、南部信景の死の様子を聞いた大御所家康と将軍秀忠は、信景の死を以て左門の助命という約束を守った。

しつこく引き渡しを求める利直に、秀忠はこう言ったという。


「南部左門は抜群の忠義者である」


利直は以降は何も言わなくなった。

以降の彼は領内の整備を進め、民の為の政治を行ったが、

反面、三戸南部家と同格の八戸家を強引に遠野に移したり、

国人領主から家臣となった独立心の強い者たちを粛清したりと、独裁権を強めていった。

信景が養子に入った北家も潰された。


不来方改め盛岡南部家は、その後幕末まで続く。

比較的地味な印象の南部家において、一瞬光り輝き傾いてみせた

「光武者」こと南部信景は、地元においても忘れ去られている。

それ故、かなりの脚色と共に掘り起こしてみた次第である。


伊達政宗以外で、

北の大地にはこのような派手な男が居たのだ

という事を。

あまり長くないので、ここで完結です。

南部利直についてですが、こんな陰険な人じゃないですよ

…と言いたいとこですが、結構独裁権強化型の人物なんで、もしかしたら陰険かも、と思いました。

あと「南部信景は南部利直の命令で、二股かける為に大坂に入った」という話もあるそうです。

でも、処刑の仕方が陰惨なので、「不仲だから出奔し、大坂城に入った」って事にしました。

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