其の弐
大坂冬の陣は終わった。
南部利直率いる五千の兵は、特に何をするでもなく、平野口から大坂城を包囲して終わった。
この戦いで名を上げた南部とは利直でなく、
「南部の光り武者」
と噂された黄金の甲冑を纏いし南部十左衛門信景であった。
「いやいや、中々の戦ぶりだったと聞いておる」
何故かやって来た伊達政宗が、南部利直に語りかける。
「はあ…」
利直が渋面なのは、幕府に疑われる事をした元家臣の振る舞いだけが理由ではない。
『なんでお前、ここにいるんだよ』
利直は別段仲良しでもない伊達政宗に閉口していた。
仲良しどころか、彼によって面倒に巻き込まれた事もあった。
遡ること十四年、慶長五年の関ヶ原合戦の折りであった。
南部家は元から徳川家康に与していた。
南部利直は家康の命に従い、主力を率いて上杉景勝との戦に向かった。
その空いた隙に、現在は南部領となっている和賀を治めていた和賀忠親が攻め入って来た。
岩崎一揆である。
和賀勢は北信愛の守る花巻城を攻め、二ノ丸まで落としていた。
それを救ったのが北十左衛門、今は南部信景と名乗っている男だった。
彼は、花巻城本丸を十数名で守る義父の北信愛救出の為奮闘した。
北十左衛門は花巻城を救うと、一揆勢に反撃し、和賀忠親の守る岩崎城に迫った。
態勢を立て直した南部利直も駆けつけ、北十左衛門とともに岩崎城を攻めたが、
冬が訪れた為合戦は休止された。
この一揆を扇動した者こそ、そこで酒飲みながら何やら喚いている伊達政宗なのだ。
岩崎一揆扇動がばれ、彼は百万石に加増するという約束を反故にされた。
自業自得なのだが、懲りていない。
というか、「戦国の習い、当然の事でしょ。気にすんな」という態度である。
「あの南部信景という男、弓は上手いし、鉄砲も名手のようだな」
『知ってる…』
「黄金の矢を放ち、しかもその矢には名が書いてあるそうだ。いやはや目立つことよ」
『そのせいでエライ迷惑被ったんだが…』
「血が騒ぐのぉ。儂も元祖伊達者としてあれくらいやっても…」
「控えて下さい!!」
最後の声は利直ではなく、伊達家臣たちのものだった。
「それで利直殿、あの信景というのはどんな男なのだ?」
『諱を口にすんじゃねえ!この無礼者が』
そう思いつつも、政宗の質問に利直は答えた。
「彼奴めは、ここの櫻庭安房の弟でござる」
信景は、甲斐源氏南部氏が奥州下向した時から仕える櫻庭氏の出であった。
信景の父、櫻庭光康は石川高信と共に津軽の地を平定した。
石川高信の子で、当時嫡男がいなかった南部晴政の養子に入ったのが南部信直である。
やがて南部晴政に子が生まれ、信直は疎んじられた。
その晴政が急死し、晴政の子もまた「謎の一揆勢に襲われ」急死する胡散臭い事件があった。
こうして南部信直が、甲斐源氏南部家第二十六代当主となった。
この当主交代において、調略・根回しを担当したのが北信愛であった。
疑問の残る当主交代劇と、その信直が臣従した関白豊臣秀吉による奥州仕置きに不満を持った
南部一門の有力者・九戸政実が乱を起こした。
南部家は、三戸南部家、八戸南部家、九戸南部家という三家が有力であった。
南北朝時代、一時八戸氏が惣領であったが、以降は三戸氏が当主筋にあたる。
この三戸南部が絶えたとなると、九戸南部から養子を入れていた為、ここが継ぐべきであった。
北信愛は八戸南部氏を説得し、同じく養子であった信直を後継者とした。
九戸氏は周辺の豪族を糾合し、豊臣政権と南部信直に対し挙兵した。
この挙兵にあたり、一戸城を守っていて、乱を通報するも、合戦に及んで負傷したのが
北信愛の次男・北秀愛であった。
北氏は信愛の長男愛一流と次男秀愛流があった。
この秀愛が死亡した為、ここに櫻庭光康の次男・櫻庭十左衛門直吉が養子として入った。
名を北十左衛門愛信と改める。
徳川家康、蒲生秀郷ら天下の大軍が集った九戸政実の乱は鎮圧された。
南部信直は三戸城から九戸城改め福岡城に移った。
そして新たな根拠地として不来方(盛岡)に築城を始めたが、
完成を見ずして南部信直はこの世を去った。
後を継いだのが南部利直であった。
九戸政実の乱や、北信愛の信直擁立、それに味方した八戸氏の存在。
南部家が近世大名に生まれ変わるには、これら大きな力を持った一門、家臣が邪魔である。
利直は家臣たちの力を削ぐ政治を行った。
北十左衛門愛信出奔について逸話が残っているが、根本的な原因はこの主従対立であろう。
ちなみに逸話というのはこういうものだ。
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『ある時利直の朝食に大豆程の小石が混じっており、また汁には大きな魚の骨が入っていたことがあった。
大いに怒った利直は、北十左衛門の息子で側仕えの北十蔵に料理人を討つよう命じた。
まだ元服前の十蔵は不安に思ったが上意では拒むことも出来ず、
料理人を討つが自身も大怪我を負い、この傷がもとで亡くなった。
息子を失った北十左衛門は嘆き悲しみ、屋敷に引き籠り出仕しなくなってしまった。
これに怒った利直に閉門を命じられ、後に出奔して高野山に登ったという。』
(祐清私記)
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「まったく、我が殿はあれだけ馳走(お仕事)してやったにも関わらず、
家中をああだこうだと締め付け、儂を邪魔者にし出した。
罰を受けたり、儂のように暇を出された者も数多い。
まったく肝の小さき事よ」
大坂城内では、後藤又兵衛相手に信景が愚痴酒を飲んでいた。
「お互い、御先代様が懐かしまれるのぉ。
儂のとこの先代、如水軒様はそれは素晴らしいお方じゃった……」
(以降省略)
大坂城内では悪口を言われ、先程は”東北において何かあったら大体こいつのせい”たる伊達政宗に
押し掛けられ、勝手に酒を飲み食いされ、好き放題言われている南部利直は、
『なんか無性に腹が立つ…』
とイライラしていた。
「それで…」
「は?」
「北入道殿(信愛)はいかがされた」
「一昨年、亡くなりました」
「信景が出奔したのはいつだったかの?」
「四年前、慶長十四年の事です」
「ふむ…。信景め、入道殿に気を使ったな」
「は?」
「お主、奉公構え(こいつクビにしたから雇わないで下さい、という回状)を届けたゆえ、
ほとんどの大名家は信景を雇うことは出来ぬ。
あえて雇おうとすると、かの後藤又兵衛を雇おうとした細川家と黒田家のように諍いが起こる」
今、大坂で信景と一緒に先代を称え、当代を虚仮にしている後藤又兵衛も、奉公構えを出された身であった。
細川家が豊前中津に入った時、国替え前に当地を治めていた黒田家は、
慣習に反してその年の年貢米を移封先たる筑前福岡に持ち去ってしまった。
国替えで金を使った後なのに、一年程収入が無い。
返せ返さぬで、黒田家と細川家は犬猿の仲となった。
その細川家が意趣返しの為、奉公構えを出された後藤又兵衛を雇い入れようとし、両家は揉めた。
「かように、だ。奉公構えを出された者を雇える家など、そう多くは無い。
雇える家は天下に徳川家と豊臣家があるだけよ。
徳川家は、余程の者ならばそなたに話を通してからにするが、信景はそこまでの男ではあるまい。
残るは豊臣家しかあるまい。
豊臣に信景が仕えたとあらば、そなたの立場が悪くなることは
よーーく ご 存 じ だ・よ・な!?
そなたの立場が悪くなると、入道殿も気拙かろう。
だから義父たる入道殿が亡くなるまで、信景めは気を使っておったのじゃ。
いやはや、何とも孝行者よなあ、信濃殿」
…いや、孝行とか置いといて、今まさに主家に迷惑かけてる真っ最中ですが、と利直は言いたかった。
「そのように孝行者、義理堅い者が、何故出奔したのであろうのお?
思い当たる事とか無いかの?」
酔った伊達政宗ほど面倒臭い親父もおるまい。
これより数十年後、酔った老境の伊達政宗は、将軍の前で美少年らと共に踊り狂い、
翌日「体調不良で出仕出来ません」という届け出を出した逸話がある。
好き放題喋りまくって、利直の気に障る事をずけずけと言って、奥州の争乱の種は帰っていった。
南部家中の者が静まっている。
声は聞こえぬが、明らかにご当主の背中から陽炎のような物が立ち上っている感がある。
「十左めが…、絶対許してはおかぬ。絶対許しておかぬぞ!
儂自らあの者を殺してくれん…。惨たらしく殺してくれん…。覚悟しておれ…」
自分の文章の癖で、さくさくっと話を進めてしまってます。
昔書いたものなので、特にそれが顕著です。
その辺ご容赦を。