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星を見る少年

作者: 中倉三利

シリーズ第三作。


少年は夢を追う。

叶うかどうかはわからない。

それでもただただ、夢を追う。

 ペダルを漕ぐ足が重くなる。目指す場所は丘の上、まだまだ坂道は続く。荒くなる息と、額から流れる汗が煩わしい。煩わしさは大声を出したくなる衝動を駆らせる。まだ、まだ駄目だ。耐えろ。この気持ちを維持したまま、足を動かせ。自身に言い聞かせ、湧き上がる衝動を動力に変える。夏の夜の風は体に纏わりつき、不快感が募る。汗も、風も、家族も、何もかも、今の自分には障害でしかない。

 

 「漫画家になりたい。」

 三者面談で、自分の中に留め続け、誰にも話すことのなかった夢を初めて語った。母も担任も驚く顔をしていた。

 「高橋、お前本気で言ってるのか?」

 「僕は本気です。」

 「だからお前、進路希望書に何も書かなかったのか?」

 「はい。」

 「孝太郎、あんた何馬鹿なこと言ってるの?」

 「馬鹿なことってなんだよ。」

 「いい?漫画家なんて、そう簡単になれるものじゃないのよ?」

 「そんなのわかってるよ。」

 「だったらどうして?お兄ちゃんみたいに、普通の会社に入った方がいいに決まってるわ!」

 「兄貴は関係ないだろ!」

 「関係なくない!私はあんたが心配なのよ!お兄ちゃんみたいに成績も良くないあんたが、漫画家なんかになったら、どう考えても失敗するに決まってるわ!そんな結果の見えた未来よりも、堅実な未来を選んでほしいのよ!」

 「失敗するかどうかなんてわかんないじゃないか!大体、堅実な未来ってなんだよ!俺は自分のやりたいことを、やりたいようにやるだけだよ!優等生のふりをする兄貴を見て思ったんだ!親の顔色を窺って、ビクビクしながら生きる日々なんてまっぴらゴメンだ!」

 「お父さんに言うわよ!絶対反対するんだから!」

 「ああいいさ!反対されようが、泣いて頼まれようが、俺はもう決めたんだよ!」

 「まあまあ、二人とも落ち着いて…。」

 担任がその場を宥める。母は、理性を取り戻し、恥ずかしげに俯く。孝太郎は憮然とした態度のまま、窓の外を眺めた。

 「高橋。お前、漫画家になるため、何かやってるのか?」

 「部活で毎日デッサンしています。ストーリーも、思いついたらすぐメモ出来るように手帳を持ってます。パースの取り方や、効果線の書き方を、専門書を読みながら練習しています。まだラフ画ですが、原稿を描き始めました。夏休みの間に書き上げる予定です。」

 「そっか、お前美術部だもんな。絵は問題ないな。」

 孝太郎を肯定するような口振りに、母がキッと担任を睨む。慌てて担任は孝太郎を諭し始めた。

 「だがな、高校を卒業したらどうするんだ?いきなり雑誌に載るほど人生は甘くないぞ?」

 「まずはアシスタントから始めます。一度編集社に電話をして、どうやってアシスタントになればいいか聞いたことがあります。親の同意を得ているのならば、卒業してからアシスタント先を紹介すると言われています。」

 「おお、ちゃんと考えてるな。…しかしな、高卒は社会的にもきっと不利だ。もしも鳴かず飛ばずで三十代になったらどうする?せめて大学を卒業してたら、まともな就職先を見つけてたかもしれないのに、なんて後悔したいか?」

 「まるで漫画家がまともな仕事じゃないみたいに言いますね。」

 「ああ、悪い。そういう意味で言ったんじゃないんだ。」

 「わかってますよ、先生の言いたいことは。確かに、難しいことだとは思います。でも、僕は、やらなかった事に後悔したくないんです。」

 「でもなぁ、何も高校二年生で将来を決めつける必要は無いんだぞ?大学は高校よりも刺激や新しい体験を見つける事ができる。四年間を無駄にするのは勿体無いと思うことがあるかも知れないが、通わずに貴重な経験を得られなかった方がよっぽど勿体無いと思うぞ?」

 (担任が大学進学を薦めるのは、単に進学率を高め、世間からの信頼を得たいがためだろう。どうせ本心では、何馬鹿な事言ってるんだと思ってるに違いない。馬鹿にしやがって。)

 孝太郎は、学校側の意見を勝手に解釈し、ますます不機嫌になった。

 「とにかく、今一度よく考えて、親御さんと話をしなさい。お母さんも、頭ごなしに夢を否定しちゃいけません。きちんと話し合って、お互い納得できるようにしましょう。」


 帰り道。母が運転する車の中で、会話は一つもなかった。孝太郎は窓の外を眺めながら、父親になんて言われるかを想像し、その言葉に対する文句を考えていた。

 (まず無いとは思うが、賛成してくれるならラッキーだ。好きにしろと言うなら勝手にやるし、反対されたらまずは俺の作品を見てからもう一度考え直してくれ、と言おう。お袋みたいに、頭ごなしに否定して、めちゃくちゃに馬鹿にするなら家を出てやろう。)

 などと考えているうちに家についた。無言で車から降り、一目散に自分の部屋に向かう。鍵をかけ、引き出しの中から七つ道具を取り出すと、一心不乱に漫画の練習をする。だいぶ主人公のキャラが立ってきた。ヒロインやライバル、モブキャラたちの書き分けも上手くなっている。一人一人の物語に書かれないストーリーを考えるのはとても楽しい。彼らにも生きてきた証があり、それを自分が証明するのだ。

 気がつけば時刻は夜の七時だった。そろそろ父が帰ってくる。道具をしまい、先に風呂に入ってしまうことにした。一階に降りて、風呂場に向かう。するとリビングから話し声を聞こえた。

 「孝太郎、漫画家になりたいんだって。雄一郎、どう思う?」

 「漫画家?あいつが?そうか、漫画家か。」

 話し相手はどうやら兄のようだ。

 「あんたからもなんとか言ってやってよ。そんな無謀なことやめろって。」

 「無謀かどうかは母さんが決めることじゃないだろ。」

 「あの子、勉強もしないで毎日絵を書いてるのよ?このままだとまともな生活を送れないわ!落ちこぼれまっしぐらよ!」

 「そんなこと言ったら俺だって落ちこぼれだよ。目標の大学には行けなかったし、大手企業にも就職できず、結局地元の公務員。」

 「でもあんたは立派な社会人だわ。」

 「母さんの考えは古いよ。今は安定よりも自分のやりたいことを重要視する時代だぜ?確かに漫画で成功するやつは一握りだけど、昔に比べて出版社の数も増えたし、絵だけ描いて生活してるやつもいる。昔ほど生活が苦しくなるっていうのも少なくなってるんじゃないかな?調べたことはないけどさ。」

 「でも…。」

 「母さんのが心配するのもわかるよ。息子のことを案じない親なんていないからね。」

 兄はどうやら反対しないようだ。父さえ攻略できれば、母だって折れるはず。孝太郎は神聖な儀式の前に身を清めるかのように、風呂で英気を養うことにした。ゆったりと湯船に沈みこめば、浴槽から湯が溢れる。ふぅ、と一つため息をして、今後のことを考える。父さえ説得できれば、母だって反対することはないだろう。それに、例え無理だと言われても、編集社に出した反応を見てくれればきっと応援してくれる。孝太郎は、ただただ成功する未来しか見えていなかった。たかが高校生、失敗するなんて考えたことはない。社会の厳しさも知らない。孝太郎を突き動かすのは、好きな漫画を描く、ただそれだけだった。

 「ただいま。」

 父が帰ってきたようだ。

 「よし!」

 気合を一つ入れると、ザバッと湯船から飛び出した。大丈夫、俺は必ず成功する。孝太郎は、ただただ幸せな未来を想像しているだけだった。


 夕食はいつもより静かなものに感じた。カチャカチャと音を立てる食器が余計にそれを感じさせる。異様な緊張感の中、いつ話を持ち出そうかと孝太郎は神経を張り詰めていた。

 緊張を解いたのは父だった。

 「孝太郎、進路は決めたのか。今日は三者面談だったろう。」

 いきなりの出来事で、身体は固まった。母が困ったような顔をして、父の言葉に返す。

 「それが、この子、進学しないって。」

 「なに?」

 「漫画家になるんだ。」

 静かに、しかし力強く、孝太郎は言葉を放った。

 カチャリ。父が箸をおいた。

 「だめだ。」

 孝太郎は、ばっと父の顔を見た。そこには憂いも怒りも感じさせない、ただただ静かないつもの父の顔だった。

 「なんで…。」

 「お前、漫画家になるって、どういうことかわかっているのか。」

 「そんなのわかってるよ!厳しい仕事だ。でも俺はなりたいんだ!」

 「バカを言うな。社会のことを何も知らないやつが、いきがったことを言うな。」

 目に涙が浮かぶ。将来の夢を否定されていることに、父が自分の夢を応援してくれないことに、父の言葉が的を得ているという事実を認めてしまっている自分が悔しいことに。

 たまらず家を飛び出した。「孝太郎!」と母が呼びかけたが、それに答えることはなく、玄関を飛び出す。自転車に跨り、目的地など考えず、ただただペダルを漕いだ。流れる汗も、ムワッとする空気も、家族も、何もかも、どっかへ行け!


 丘の上の公園には、人の影はなかった。孝太郎の荒い息の音と虫達のさざめきだけが、あたりに響いた。街を見下ろすように、開けた場所に出ると、思いの丈をすべて吐き出すかのように孝太郎は叫んだ。わかっている。自分がどれほど無謀なことに挑もうとしているのかも、本当は無理じゃないかと考えている自分がいることも。それでも、それでも家族だけは、自分を応援して欲しかった。悔し涙が止めどなく溢れる。もはや自分の気持ちを抑える事すらできない。

 一通り叫び、泣き、疲れ果てた孝太郎は、ブランコに座った。思えば幼い頃から何かある度にこの公園に来ては、ブランコに乗った。街を見下ろしながら漕げば、まるで飛んでいるかのような錯覚に陥り、嫌なことも忘れることができた。今では、そんな気持ちに戻る事はできない。

 「何やってんだろ、俺。」

 少し冷静さを取り戻していた。しかし、これからどうするか、全く見当をつけていなかった。

 不意に人の気配を察し、顔を上げた。

 「はあ、しんど。」

 「父さん…。」

 なんで、という言葉を遮り、父は話しかけてきた。

 「全く、相変わらずここは来るのが億劫だ。」

 よっこらせっと、声を出しながら、父は孝太郎の隣に腰掛けた。こうして二人でブランコに乗るのは、いつ以来だろう。

 「なんでここが…。」

 「当たり前だろ。俺は父親だぞ?」

 不敵に笑う父が、妙に楽しそうだった。

 沈黙が流れる。二人だけの空間に不思議な心地よさを感じる。沈黙を破ったのは父からだった。

 「俺も昔、漫画家になりたくてな。」

 「えっ?」

 父が漫画家になりたかったなど初めて聞いた。

 「お前と同じくらいの時かな。教師にも反発して、お前と同じように親から無理だって言われた。俺はそれが悔しくて、出版社に持ち込みをしたんだ。不良の話でな。俺は喧嘩なんか一度もしたことないのに…。憧れてたんだな、きっと。」

 昔話をする父は、古くからの旧友と話すように気さくだった。

 「でも、出版社からの返事は全てダメだった。ストーリーが稚拙。キャラが立ってない。散々だったよ。俺はその時点で社会の厳しさを学んだし、同時に、『ああ、俺には才能がないんだ』って痛感したよ。それから、勉強して、大学に入って、今の仕事についた。あの時は若かったなぁ。何でもできると思っていた。」

 孝太郎は、静かに父の話に耳を傾けるしかできなかった。父は何を持ってこの話を聞かせているのだろう。俺に、何を答えさせようとしているのだろう。

 「だから、俺は、お前には無理だって言ったんだ。現実は甘くない。本当に成功できるのは一握りの人間だけだ。夢を諦めることがどれほど辛いことか知っているからこそ、初めから夢を潰したほうがいいと考えたんだ。…でもな、思い出したんだ。二十年以上前、俺が親父に言われた言葉と、その時思った気持ちを…。」

 父はポケットからタバコを取り出すと、静かに火をつけた。オレンジに灯る父の顔は、何処か寂しそうだった。

 「夢が頓挫して、後悔の毎日で枕を濡らすという、夢を諦めるより辛いことを経験させるのは酷なことだ。実際経験してきた俺が言うことだ。間違ってないはずだ。だけどな、一番身近にいる人間が、そいつの夢を応援してくれない事が一番酷な事なんだよ。」

 父はタバコをふかすと、孝太郎に向き合った。

 「すまなかった。お前の夢を応援することが出来なくて。思い出したよ。俺の後悔を。」

 「父さん。」

 「この道は、お前が思っている以上に酷なものだぞ。それでもお前は、この道を進むことを選ぶか?」

 真顔で、真摯に向き合う父は、孝太郎の言葉を待っていた。孝太郎の答えはすでに決まっている。それを父はわかっているのだろう。

 「俺は、漫画家になる。それが、俺の道だから。失敗しても、つまらないって言われても、ずっと漫画を描き続ける。ずっと。」

 孝太郎の顔は精悍なものだった。父は、満足したように笑うと、ブランコから立ち上がった。

 「自分の夢は自分で叶えなければならない。他人の助けを借りて夢を叶えてはならない。誰よりも努力し、誰よりも才能があると信じ続けろ。例え失敗しても、挫けるな。」

 ふあーあ、と一つ大きな欠伸をすると、父はスタスタと帰り始めた。

 「父さん!」

 「早く帰れよ。母さんが心配してる。俺から母さんには言っとくから、お前は自分の心配だけしてろ。」

 父はこちらを振り向くことなく、立ち去った。

 「…ありがとう。」

 聞こえるか聞こえないかわからないほど小さく零し、孝太郎はブランコから飛び降り、街を見下ろした。

 湿度の高い空気は、丘の上では感じない。さっきから鳴いていた虫達のさざめきも、今や静かなものに変わっていた。孝太郎は、熱く高まるものを感じ、ゆっくりと力強く掌を握りしめる。両の手には、汗がじんわりと滲み出ていた。一つ大きく吼えると、孝太郎の胸は晴れやかなものに変わった。自転車に駆け寄り、丘を下る。自転車はスピードを上げる。自分が今まで感じたことのないほどのスピードだ。孝太郎は笑みを浮かべながら、風とともに走る。頭上には満点の星空。小さな少年の、ちっぽけなプライドなど、微塵も感じさせないほど広大な世界が広がっている。残されたブランコが揺れを終えると、星達の囁きしか聞こえなかった。

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