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西行法師に憧れて  作者: 実茂 譲
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4.

 戦闘用アンドロイドは少年型であれ、少女型であれ、人間の成年にあたるコロニー構成員と見なされたので、夜もふけてから出歩いたとしても警官に家出を疑われて注意されることはまずなかった。第四居住区の人間とアンドロイドの比率は一〇〇〇対一で普通の人がアンドロイドを見かける頻度はちょうど一日一回かそこらに過ぎなかったが、アンドロイドの銀髪はよく目立ったので、遠目に見たのを勘定に入れるならもう少し人とアンドロイドが出会った回数は伸びるかもしれなかった。

 夜、街灯の照らす丸い光の円のなかを♯882が通りかかると、その白い髪が魚の腹のように光った。ただ、その光り方はプラスチックのパックに詰められ鮮魚売り場に力なく横たわった魚のそれではなく、何千尾というイワシたちがいっせいに方向転換したときに発生する光を思い起こさせた。第四居住区に住む人々は本物の海を見る機会などないにもかかわらず、イワシの群れがその腹を煌かせるとき、どんなふうに光が動くのかを知っていたし、口頭で派手な擬音語付きで説明することができた。彼らのうち何人かはライブラリーからダウンロードした大崩壊前のドキュメンタリー番組でそれを見ていた。別の何人かはエリア内にある水族館で実物を見て知っていた。そして最後に残った少数派は第四居住区から二階層下にある広大な養魚プラントで働いていたので、うんざりするほどイワシという生き物を知っていた。

 養魚プラントで働いている男たちがマイワシという生き物がどれだけデリケートな生き物か居酒屋で一席ぶっているその夜を♯882はただ目的もなく歩いていた。今夜で見納めになる夜の町の景色に♯882は不思議と未練を感じなかった。知人への挨拶はほとんど済んだし、夕日も見た。莫大な財産を遺して逝くわけではないからどこかの弁護士を管財人に指定する必要もない。やり残したことはなく、彼はただ自由であるだけだった。昔、まだ出撃義務(コロニーはなぜか兵役という言葉を好まなかった)が残っていて休暇中しか町にいられなかったとき、♯882は他のアンドロイドと同様に博物熱にとりつかれ、町のあらゆるディテールをメモリに残そうと躍起になっていた――まるでもう二度と見ることができないかのように。あのときは次の出撃で自分が異星獣の鉤爪につかまれ地面に叩きつけられて破壊される可能性があったのだ。だが、今は違った。自発的に外に出て、永久に停止しようと決めた今、心は静かに落ち着いていて、街灯の光の輪から輪へと移動するだけで十分楽しむことができた。

 彼を地上へ連れていくことになっているアンドロイド福利厚生委員会の係官たちは日の出とともにやってくることになっていた。♯882自身に組み込まれた発信装置のおかげで彼がどこで最後の夜を過ごしていようと(たとえ高圧電線塔のてっぺんにいても)、その場所まで足を運び迎えにきてくれることになっていた。♯882は最後の場所に操車場を選んだ。七本の線路をまたいだ歩道橋の中央にいれば、明滅する町の灯を眺めながら、列車が車庫に帰っていく様子を眺めることができた。そのうち全ての列車が車庫に入り、町の灯が消えて、第四居住区が完全な闇に沈み込んだが、沈黙は訪れることはなかった。風の音はまだ耳のなかで渦巻いていて、♯882にあらゆるものへの興味を失うなと警句を発し続けていた。

 だが、何を見る必要があるだろう? 視界を暗視モードに切り替えたところで見えるのは七本のレールと枕木、それに無人の管理事務所くらいのものだ。その向こうにはすっかり寝入った復元都市があるだけなのだ。♯882の心を悩ませるものは何一つ存在しない。彼は欄干に両手を添え、町のほうを向いたまま朝がやってくるのを待つことにしていた。明日の天気設定は曇りだから、朝日が丘の背後からあらわれて、町を金色に洗い、それから海へと光が流れ込むのを見ることはできないだろうが、そのかわりに目を閉じていれば、厚く垂れこめた夜の雲が徐々に明るくなっていくのを肌にあたる冷たい空気を通して感じることができるはずだった。

 そのうち風が気にならなくなった。風は止んでいないが、音の鳴り方が一定の拍子を取るようになったのだ。戦闘を経験した人間やアンドロイドはこんなとき静寂に身を浸らせて休息するすべを知っていた。それは言葉で説明できるものではなく、とにかく戦い、殺されかけて、なお生き残ることによって得られるものだった。それさえ体得してしまえば、リズミカルに打ち込まれる砲弾の炸裂音やエアシップのローターが激しく回転する音を気にすることなく心を休めることができた。それで殺した異星獣を忘れ去ることができるし、死んでいった仲間たちに再会できるのだ。

 ♯882は静寂のなかに自分を浸らせることに成功した。オールも船外機もないカンテラを艫に吊るしただけのボートに乗って、鏡のようになめらかな夜の海を進んでいるような気持ちになれた。見えるのはカンテラに照らされた渦巻く航跡だけ。後は黒い水面がずっと続いていく。時おり同じようなボートに乗ってすれ違うのは死者たちだ。山崎上等兵や刑部おさかべ大尉、#67B2や#SA88といったかつての戦友たちは別に恨めしそうな顔をするわけでもなく、仕方ないさと肩をすくめて通り過ぎていく。だが、すれ違う距離が近ければ、♯882と言葉を交わすことだってある。たとえば――走れ、♯882! 走れ!

「どこへ走るんです?」♯882は言った。「まわりは全部水なのに」

 巨大な鉤爪を持った異星獣によって装甲車ごとひねりつぶされた小山軍曹が言った。「すまない、死ぬ前に読んでいた本の影響だ。キャッチ22という名前でね。読んだことは?」

 ありません、と♯882は答えた。

「大崩壊前にアメリカ人が書いた本だ。あれはきみたちのことを書いた本だったのかもしれない。第二次大戦中のイタリアのある島に爆撃機の飛行士たちがいるんだ。彼らはイタリア本土にいる敵に爆弾を落とすために出撃するんだ」

「爆撃機の飛行士? 空から爆弾を落とすだけでしょう? なら、僕らのほうがリスクが高いようにお見受けしますね」

「ところが敵は対空砲を持っていて、爆撃機を見つけると、時限信管付きの砲弾を撃って、爆撃機を撃墜しようとするんだ。確かに我々よりリスクは少ないかもしれないが、それでも危険な仕事に変わりない。そして、その主人公ヨッサリアンは何とか出撃任務から外されたくて、自分の狂気を訴えるが、システムそのものが狂っているから、彼の狂気は無視されて出撃を強制され爆弾は落とされつづけるんだ」

「でも、軍曹。出撃には終わりがあるんでしょう?」

 小山軍曹は煙草をくわえるとカンテラの火屋を少し上げて、煙草を突っ込んで火をつけた。そして、ふうっと紫煙を吹くと左右に首を振った。

「終わりはないんだよ、♯882。出撃に三十回参加したものは任務から解放するというルールがあるのに、二十九回目の出撃を終えて帰ってみると、解放されるための出撃回数は四十回に増えているんだ。そして、三十九回目に出撃を終えて帰ってみると、どうなってると思う?」

「解放のための出撃回数が五十回に増えているんですね」

「絶望と狂気だよ、そこにあるのは。でも、最後にヨッサリアンは自由につながる希望を見出すんだ。とてもかすかなものだけどね。ヨッサリアンはその希望に賭けて、基地の野戦病院から飛び出す。全てを読み終えて本を置いたとき、僕は肺が爆発するんじゃないかと思うくらいの大声で叫んだ。走れ、ヨッサリアン! 走れ!」

 小山軍曹は実際に叫んでみせた。訴えるような叫びは闇のなかに吸い込まれていった。

 ♯882は微笑んで言った。

「それなら僕には走る必要はありませんね、軍曹。だって、僕はもう解放された身の上ですから」

「だが、異星獣との戦争はまだ終わっていない。戦闘用アンドロイドはいまだ戦い続けている。終わる見込みがまったく見えない。コロニーでの自給自足に成功しても、異星獣を放置すれば、いずれは地下コロニーまで侵攻されるかもしれない。異星獣がどれだけ弱体化しても絶滅はできない。常に押さえつけないと、勢力を盛り返して逆襲されるだろう。それが怖い。常に戦い続けなければいけないという強迫観念があるから、僕らは戦闘用アンドロイドを造り続けるんだ。♯882、正直に答えてくれ。僕ら人間はきみたち戦闘用アンドロイドにキャッチ22と似たような絶望と狂気を強いてはいなかったかい?」

 小山軍曹はすがるような目でたずねた。

「僕の知る限りありませんでしたよ」♯882は素直に答えた。「僕らが創られた理由は戦うためでした。でも、十年間の出撃義務を果たせば、解放されます。事実、僕は解放されました。それに戦う義務を人間もまた果たしていたじゃないですか? 僕もあなたも走る必要なんてないんです、小山軍曹」

「でも、きみはまた地上に行こうとしているな?」

「それは自分の意志です」

「人間が戦闘用アンドロイドをわざと少年や少女の形に創り上げたのはなぜだか分かるかい? それが一番人間の心にぐさりと突き刺さるからなんだ。地下でコロニーが発展しているとき、地上では白い髪をした子どもたちがバケモノ相手に血みどろの戦いを繰り広げている。全てが悪夢じみた寓話であることを忘れさせないためなんだ。浄水プラントの運用コストときみたちは飲み水と平和が決してタダでは手に入らないことを人間に教えるための生きた教訓なんだ。……ちくしょう、愚痴が長くなったな。時間が来たようだ。さようなら、♯882。ボン・ボワイヤージュ!」

 ♯882はゆっくり目を開けた。夜は明けていた。灰色の空と灰色の町が目に入り、彼の足元から七両編成の列車が七本別々の方向へ走り去っていく。二人の係官が眠そうに目をこすりながら、♯882の左右に立っていた。

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