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西行法師に憧れて  作者: 実茂 譲
2/25

1.

 第四居住区は淡い光にくるまれて、まどろんでいた。町をすっぽり覆うドーム型スクリーンは太陽を三月末の正午の位置に据え、薄く切った雲を西の空に散らしていた。ドーム内には二十一世紀初頭の日本の地方都市の街並みが忠実に再現されていた。瓦屋根とスレート、バッティングセンター、ガラス戸に守られた掲示板に画鋲で留められた『元気にあいさつをしましょう!』のポスター、携帯ゲーム機をいじる小学生たち。生き残った人類はつやつやと光るエナメル質の未来を拒絶し、大崩壊前の過去を復元させることに自分たちの未来を費やした。そのためには数世代の人間が生まれそして死んでいくほどの時間をかけなければならなかったが、それでも彼らはやり遂げた。彼らは小規模な生態系の確立に成功した人工海岸から、あるはずのない市議会選挙の宣伝カーを走らせることまで再現してみせたのだ。

 ♯882が鎮守の杜がある丘を下りながら眺めているのはそうした苦労の末に創られた街であった。彼の眼には街は懐かしいものをかき集めてドーム型スクリーンで封をした宝箱のように見えた。それはガラス玉のなかの雪景色のようで、そんなプレゼントをもらった子どもたちはわくわくして、ずっと大切に持っておこう、壊さないよう大切にしようと思う、そんな宝物だ。

 そして♯882はそんな宝物を守るために製造されたのだった。

 服装だけで判断するなら、♯882はごく普通の少年のように見えた。黒のシャツにチノパン、量販店のスニーカー。親がいて、家があって、兄弟姉妹がいて、犬か熱帯魚を飼っていて、ガールフレンドがいる普通の少年。だが、♯882の髪は真っ白で瞳はコバルトブルー、肌の色は今まで太陽を知ったことのないような、栄養不足を疑いたくなる雪のような白だった。特殊なタンパク質でつくられた人工皮膚をさらに強化するべく投与された化学物質の影響でそのような外見になったと彼は教えられていた。だが、真相は都市ガスに臭いをつけるのと同じで、年々製造精度の上がっていくアンドロイドの外見に人間と比較して分かりやすい差異を与えるようコロニー評議会から製造各社に義務づけられているからに過ぎなかった。

 人間とアンドロイドをそうやって区別することを非人道的な差別措置だと糾弾する人間がいたことは確かだが、♯882としては肌の色をショッキングパープルにされるよりはマシかなと考えるくらいでやめにしていた。善良な一少年型戦闘用アンドロイドとしては出撃して異星獣を一刀両断して、やっとのことで手に入れた貴重な休暇をそんなつまらないビラくばりやプラカードづくりに費やしたりしたくなかった。

 とはいえ、そうした市民運動の積み重ねが現在の〈アンドロイド権利条項〉を生んだことを思えば、彼らプラカード屋に足を向けて寝ることはできないな、と思い、手を合わせて拝みたくなる気持ちも湧いてくるのだった。

 ♯882は気象管理局が春に設定して生み出されたのどかさに欠伸をして、道を下っていった。彼が今進んでいる道には季節を春に設定された光が降り注いでいた。居住区を始めて歩いたとき、彼はアスファルト道路の白線があまりに眩く光るので、どうやって人間は太陽もなしにここまで眩い反射光をつくることに成功したのだろうと不思議に思ったものだ。だが、今の彼はそれが、スクリーンの天候に同調して発光するように設定されたナノマシン入りのペンキで白線を引いたに過ぎないことを知っていた。

 少年型戦闘用アンドロイドにとって〈知る〉ということはとても難しい概念だった。オイチョカブや小倉百人一首のように知れば知るほど楽しいこともあれば、このナノマシン入りの白線の反射光のように知ってしまったばかりに失望することだってある。ただ、同様のことに人間も悩んでいることを〈知った〉おかげで♯882は〈知る〉を使いこなす自信がついていた。

 そして、〈知る〉はやはり素晴らしいものだった。休暇中に立ち寄ったデパートで初めて小倉百人一首を見かけたときのことを思い出すと彼の足はその場に釘付けになり、そのときの感動を甦らせるよう意識コードに命令が下されるのだ。だが、彼の魅せられた過去の復元はバスのクラクションによって敗れ去った。

「乗るかい、アンドロイドさん?」

 開いた乗車口の向こうでメタルフレームの眼鏡をかけた若い運転手が笑いかけていた。♯882が立ち止まっていた場所のすぐそばには丸い金属板に〈若松八幡神社前〉と記されたバス停と注連縄を結んだ鳥居が立っていた。

「いえ、けっこうです」

 ♯882が丁寧に断ると、プシューという音を立てて乗車口が閉まり、電気エンジンを静かに駆動させてバスは走り去った。バスのなかには小さな男の子を連れた母親らしき女性とロイヤルレジメンタルのネクタイをしめた上に作業服の上っ張りを引っかけた中年の男が乗っていた。男の首にはコロニー浄水技官のIDカードがぶらさがっていた。

 遠ざかっていくバスを眺めながら、♯882は考えた。バスのなかの彼らは神を信じているのだろうか? おそらく信じているのだろう。夕暮れ時の縁側で蚊取り線香の煙が漂う中、ヒグラシの鳴き声を聞きつつ醤油を走らせた冷や奴を食べる環境を再現するために研究部門の持てる科学力の全てを費やしたくらいだから、当然、このコロニーの日本人たちは神や仏も信じている。大崩壊前の日本人と同様に口では無宗教と言いつつ、クリスマスと初詣を何の違和感もなくこなす特殊で便利な信仰を持っていた。

 それでも記録によれば大崩壊直後の人類のあいだでは神も仏もないと絶望し無神論者がはばを利かせたことがあったようだ。だが、最前線に立って戦うものたちは異星獣との絶望的な戦いの日々で結局命のやり取りをする際はどんなに努力したところで運の関与を妨げることはできないのだということを悟った。あきらめた彼ら兵士たちは屋島合戦で扇の的を射る那須与一が南無八幡大菩薩と唱えたように、異星獣の頭蓋を狙撃用スコープの十字線でとらえたとき心のなかで神という名の白いローブを着た全知全能の老人の姿を思い浮かべ、どうか弾が命中して生きて家に帰れますようにとお願いするのだった。

 ♯882は鳥居をくぐって、境内を歩いてみることにした。手水鉢からちょろちょろと水が流れていた。瓦葺の社殿と絵馬を吊るす板はあるが、おみくじ売り場はなかった。大崩壊を生き残った日本人が神と崇める存在の棲み処は木漏れ日のなかで安らいでいるようだった。その安らかな様子に嫉妬心を感じた

 ♯882はディックの小説にかこつけて「アンドロイドは依り代の夢を見るか?」と問いを放ち(実は彼は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んだことがなかった。そのなかでアンドロイドは惨い死に方をすると既読の友人に教えられていたからだ)、見る、と自分で判を下した。

 将来、動きを停止した自分を依り代にした信仰が生まれてもいいはずだった。♯882は控え目に見積もってもそれだけの活躍はしたと自負していた。また幸いなことに彼は近接戦闘用アンドロイドだったから、自分を依り代にした神社が建てられた際には現役時代に異星獣を斬り捨てるのに使った刀を奉納させることができた。刀を奉納するというアイディアはとても魅力的なものに思えたので、これは誰かに言い残しておくことが必要だ、と思った♯882は自身のメモリだけではなく、尻ポケットに入れておいた表紙がデニム地の手帳にHBの鉛筆で書き付けた――愛刀は奉納すること! アンダーラインを引きながら、唯一つ残念なのは刀の銘が〈ffhB-334〉という味気ない字の行列に過ぎないことだなと考えていたが、それも時代の移り変わりだと思ってあきらめることにした。

 ♯882は神社から思わぬインスピレーションをもらったお返しに鈴を鳴らして手を打った。賽銭箱の横にICカードの読み取り専用端末が置いてあるのに気づいたのはそのときだった。ICカードを触れてみると、端末のホログラフディスプレイが宙に浮かび出し、一番上にカードの残金、次に一円、五円、十円、五十円、百円とメニューが出てきた。♯882は十円に触れると端末下の受け取り皿に十円玉が落ちてきた。もう使われることのない硬貨という発明品。その銅貨には平成十三年と刻印されていたが、これはあくまで賽銭箱用に鋳貨した偽物で実際に平成十三年に流通したものではなかった。大崩壊前の世界に流通した紙幣や硬貨はコロニー文化芸術保存委員会の管轄下に置かれ博物館に保管されることになっていたのだ。♯882は十円玉を賽銭箱に入れると、もう一度鈴を鳴らし、手を打ち、礼をして、願をかけた。

「どうか花の下にて春に死ねますように」

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