18.
五日後、ついに陸が見えた。まず海鳥が、次に左右に果てしなくのびる崖の赤い線が、そして崖の底を白く縁取る砂浜が見え、そして黒く動く影――水際を走る馬の群れが見えた。馬たちは大人の馬も子どもの馬もそのたてがみをなびかせながら、水を踏みつけた。きらきら光る水の玉が目の前をかすめ飛び、その冷たいしぶきを体に浴びると、馬たちの体はますます火照り、群れで一番年老いた馬でさえ地の果てまで駆け切るだけの活力が湧いてくるのだ。
♯882と♯735は上陸すると馬の蹄の跡を追って、半日ほど歩いた。日が暮れるころにはなだらかな勾配と森が散らばっている草原が見つかった。アルゼンチンのガウチョが小躍りして喜ぶであろう、豊かな牧草地帯だった。馬たちが頭を下げ、遠い北の山脈から流れてきた雪解け水の流れに足を浸しながら水を飲んでいた。二体のアンドロイドが近づいてくるのを見ても、馬たちは逃げるそぶりも見せなかった。彼らを投げ縄で捕らえるカウボーイや圧縮空気で飛び出す屠殺用ボルトを完備したドッグフード工場は数世紀前に絶滅していた。だから二体のアンドロイドを前にして純粋無垢な馬たちのしたことと言えば、耳をぴくぴく動かして、耳についた水滴を払うくらいのものだった。十分な水とウマゴヤシで腹を満たした馬たちは二人を無視して、水辺の周りの素晴らしい緑の草の上でうつらうつらし始めた(実際、刀一振りと丸木舟一艘でこの馬たちが創りあげた完璧な世界に何ができたというのか?)。
それからの数日間は馬との旅だった。二人が西へ歩くと馬たちは北西か南西へと走っていなくなる。そして、そこが森だろうが草原だろうが湿地帯だろうが夜とともに戻ってきて、馬たちは二人とともに休むのだ。馬たちは立ったまま静かに寝息を立てていた。
「なんで逃げないんだろうな?」♯735は不思議そうに言った。「まるで人に慣れてるみたいじゃねえか」
「このあたりには異星獣がいないんだろう」
「人間もな」
「人間がいたところでなんだって言うんだい? 今更牧畜やドッグフードで身を立てようとする人間はいないだろう?」
「人間ってのは内燃機関を実用化するまではこいつらをこき使って文明をまわしてきたんだろ?」
「今は心を入れ替えた。戦闘用アンドロイドにも人権を認めるくらいなんだぞ。馬だって今や愛玩動物さ」
「どうだかな。おれが思うに人間にとって馬は放っておくには素晴らしすぎる生き物なんだと思う。人間が自分たちの矮小さを忘れるためには野生の馬を捕まえて、鞍を置き、さんざんこき使って、ドッグフードにするしかないのさ」
「人間は自分たちの矮小さを十分に思い知ったよ。だから地下コロニーから出ようとしない」
次の日の夜、馬たちはやってこなかった。そのかわりに満月が狂気を静かに知らせ、二体の戦闘用アンドロイドの対外感覚識別子コードに『敵』の存在を感知させた。
「北だ」♯882がそう言ったころには既に#735はボートを置いて、北へとつながる青白い月明かりの渓谷を目指して、できるだけ身を落として静かに走っていた。♯882も後を追い、五十メートル先の#735に通信した。
《チャージは?》
《ナイフそれぞれに六ずつ。そっちは?》
《刀一本で十四チャージ。後はスローイング・ダガー式のRT炸薬がバックパックに三十本ある》
《ダガーは温存して、チャージで片付けよう》
《『敵』どもは交戦中だ。間違いない》
《『敵』の『敵』が味方だといいけどね》
二人は全てのものの輪郭をくっきりさせる銀の光の渓谷を越え、眼下に広がる起伏豊かな草原に敵を探した。右前方七百メートルの位置に一六体の飛行型異星獣が見つかった。丘の起伏に隠れていたので戦っている相手が何であるかは分からなかった。異星獣のうちの一匹が急降下して襲いかかると、一瞬丘に隠れて、次の一瞬では異星獣は急降下と同じぐらいの速さで飛び上がり、月に食らいつこうとするように大顎を開け叫びながら青い炎に焼き尽くされ、灰となって散り落ちていった。
《こちら♯882》♯882は走りながら、相手の通信に呼びかけた。《戦闘用アンドロイド二体。合計二十六チャージ。支援に向かう》
《こちら♯701》相手からの返信があった。《助かる》
二人が丘を越えたころ、♯701と思われる少女型戦闘用アンドロイドが月の光を纏わせた長い髪を振り乱して、三尺三寸の大太刀で異星獣と戦っていた。そこは牧草地に浅い水が張った湿原で少女が身を閃かせ、位置を変えるたびに、水の飛沫が命を与えられた銀の妖精のように飛び散っていた。二人はすぐ♯701の背を、そしてお互いの背を守るように背中合わせで会敵した。基本の円陣を組んでから、♯882は状況を把握した。飛行タイプの中型が十体、準大型が四体、そして双頭の大型が一体。合計十五体の飛行獣が円陣を組んでいる三人を中心にして、半径三十から四十メートルの円をまわっている。
中型の二体が急降下してきた。それは毛深く、口は深海魚のようにグロテスクに尖っていて、紫色の泡を吹きながら、三体のアンドロイドに突っ込んでいった。一体目は♯701の太刀で胴を両断され、もう一体は身の入れ違えで背後を取った#735に喉を切り裂かれ、同時にチャージ一の突きを背中から胸に刺した。異星獣は胸を内側から燃やす青い炎にもがき苦しんで死んでいった。
「おい、ねーちゃん!」基本の円陣に飛び戻りながら#735が叫んだ。「あんたのチャージは!」
「さっきので最後!」♯701は付け加えた。「それとねーちゃんって呼び名はやめてくれる!」
「あの二つ頭のコアを――」と♯882が強引に会話に割り込んだ。「チャージなしでやるのは無理だ! もし、やつが来たら二人はオトリになってくれ。僕が懐に飛び込んでありったけのチャージを打ち込む!」
「どれぐらいあれば殺れる?」♯701が訊ねた
「十あれば殺れる!」
「ボスをやれば、子分はビビッて逃げると思うか?」#735が上方をぐるぐる飛ぶ異星獣たちを目で追いながら訊ねた。
「やつらにそんな理性はない」♯701が吐き捨てるように言った。「こっちがやられるか、あっちが全滅するか」
それに対応したかのように、空を飛ぶ異星獣たちはぐるっと身をまわって、体を地上の三人に向けると空を覆う星夜が剥がれ落ちるくらいの怒声を上げて、一度に襲いかかってきた。
窮地に追い込まれ、戦闘プランが削除され、三人の感情コードが緊急自己保存用に書き換えられた。
《殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ》
喚く殺戮コードに凶暴化した三人は咆哮を上げて、それぞれの刃を急降下してくる異星獣へと突き出した。