17.
「川下りが終わったね」
♯882は言った。丸木舟はいくつもの湖と沼、河川を経由して汽水湖に着き、ついにマングローブ林の泥の上に着座した。
「ああ」#735は丸木舟を肩にかついだ。
「ついてくる気?」
「まあな」
「川下り屋はいいのかい?」
「あそこでもう十二年次の客を待つよりはお前についてまわったほうがよさそうだ。これから旅をするなら渡し舟が必要になることだってあるかもしれないぜ?」
「僕は渡し賃を払えないよ」
「お互いさまだ。こっちだってポイントカードをつくってやれない」
「僕が花の下で停止したら、その先はどうするつもりだい?」
「知らないな、そんなこと。そんとき考えればいい」
西へと旅をするアンドロイドは二体に増えた。一体は如月の望月までに桜の木を見つけたいと思っていたし、丸木舟をかついだほうはもう一度客を乗せて、水の上で櫂を漕ぐことを夢見ていた。そして、そんな二人を嘲笑うかのように草一本水一滴とない茫漠たる砂漠が目の前に開けていた。だが、#735は大きく盛り上がった砂の丘を見て、にやりと笑った。
「早速こいつの出番だ」彼は肩に背負った丸木舟を軽く握った左手でコンと叩いた。
七月の日差しを受けながら、二人は巨大な砂丘を丸木舟で滑り降り、そのまま赤い砂漠に口を開けていた地下鉄に突っ込んだ。自動改札やキオスクの残骸を飛び越え、一筋の光も差さない暗闇のトンネルや放置されたプラットホームを突風のごとく通り過ぎ、滑り込んだときの勢いをそのままに別の地下鉄駅の入口から青く深い空目がけて飛び出した。
ざぶんという音とともに白く輝く幾千の冷たい粒が飛び散った。これによって地下から見えていた青い世界が空ではなく海であったことを彼らは知った。だが彼らのスーツについた水滴が干上がっても塩は残らなかった。
「淡水だ」♯882は言った。「ここは湖だよ」
そういって彼は振り返った。東には高さが数十メートルはありそうな真っ赤な崖があり、二人が飛び出した穴が水面からだいぶ離れた場所にぽつんと開いていた。
「海みたいな湖だな」#735が言った。北と南と西にはただ水平線があり、陸は見えなかった。
「ここは本当に日本列島なのかな?」
「そもそもそんなものがまだ存在しているのかも怪しい」#735は艫に立ち、櫓を手に取った。「最後に測量してから五世紀以上経ってるんだぞ。現役のころ、異星獣退治から帰るときエアシップの窓から幅数キロに及ぶ滝を見たことがある。そこじゃ一億の人間が一ヶ月に使う水がわずか七秒で流れ落ちるんだ。人間の士官が言うには、どうもおれたちの住んでいる場所は昔のオーストラリアぐらいに膨れ上がっているらしい」
「コロニーの人間たちも把握しきれてないんだろうね」
「そこだよ。そこがおれの狙い目だ。コロニーの目が届いていないところで、異星獣に襲われるリスクをとってでも、お天道様を仰いで暮らしたいって頑固な馬鹿野郎どもがいるかもしれない。そいつらがいれば、おれの渡し舟ビジネスは大いなる飛躍を遂げられる。でも、まあ、とりあえずは――」♯735は櫓を水に差し込み、舳先を真西に向けた。「この海もどきを征服しようぜ」
湖の水は完全に停滞していた。水流というものが存在せず、#735の櫓以外にその湖面を乱すものは存在しなかった。あまりに静かなので、♯882はひょっとするとプランクトンを含むあらゆる生き物が棲んでいない可能性を考えた。核兵器の格納庫か化学兵器の実験工場が沈んでいて、あらゆる生物を死滅させているのならばありえる話だ。♯882は舟に揺られながら、自分たちは世界最大の鏡の上を滑っているようなものだと言った。
「使いづらい鏡だよな」♯735は一定のリズムで櫓を動かしながら言った。「ハンドバックに入れて持ち歩くわけにはいかないし」
「夜になったときのことを想像してみてくれ。湖面に星が全て移りこむ。湖と星空の区別がつかなくなったなかを僕らは浮かぶんだ。そんななかで舟を漕いでみなよ。まるで宇宙を飛んでいるような気になれるはずさ」
「それも悪くないな。いっそのこと、このいかれた星を捨てて、別の、もっとマシな生命体が暮らす星に行くんだ。その星には何でもある。いつドカンといくか分からない燃料を使う発電所とかピーチクパーチクうるせえだけのバード・サンクチュアリとか時間のない人間が不味そうに食うパサパサしたカロリー・バーとか、まあ、とにかく何でもだ。ところが橋とアンドロイドだけは発明されていない。だから、川を渡るには渡し舟を使うしかない。そんな星に疲れを知らないアンドロイドのこのおれがこの丸木舟を引っさげてあらわれたらどうなるかって話だ」
「どうもならないよ。どうせホバークラフトが発明されてる」
「ホバークラフトなんざ屁でもないね。あんなもん尖った木の枝で一突きすりゃボン! それでおしまいだからな」
丸木舟は静かに水を切って、西を目指して真っ直ぐ進んでいた。♯735は新たな星での渡し舟フランチャイズ計画をしゃべりながらも一方で太陽の位置を正確に把握していたから、太陽の傾き具合と自分の影の長さからきちんとした方角を割り出すことができた。
#735の渡し舟フランチャイズ・チェーンが全宇宙に支店をつくるくらいにまで話が膨らんだころ、日が暮れて、夜になった。♯882の言ったとおり、煌めく星のおかげで空と湖面は互いを区別することをやめ、いまや丸木舟は宙空を飛んでいた。
♯735は櫓を水からそっと引き抜き、船底に横たえた。フランチャイズの話はやめた。二人は耳に染み入るような沈黙の中に星の声が聞こえないかと耳をすました。星々はアンドロイドには到底想像もつかない方法でその意思を通じ合わせていた。二体のアンドロイドを乗せた丸木舟が湖に浮いていないときは常にしゃべくっているくせに、今では緘口令が敷かれたようにピタリと黙りこくってしまっている。時おり雲が通りかかって、星がアンドロイドたちから見えなくなると、星々はほっと息をついてしゃべり始め、雲が去るとピタリとしゃべるのをやめた。星が自分たちの声を地上の存在に聞かせまいとするのは、住む世界が違うことをお互いに認識するためだった。それさえ分かっていれば、下らないすれ違いや誤解でお互いが傷つき不快な思いをせずに済む。星は地上の存在にとってただ空に光り、朝焼けや夕焼けの端でかすかに瞬いていればいい。占星術師の言葉に耳を貸すな。星に声を期待してはいけない。それが星たちの沈黙から読み取れるただ一つの答えなのだ。