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西行法師に憧れて  作者: 実茂 譲
17/25

16.

「もうじき夜だな」♯735は言った。

 湖につながる峡の間からは夕陽が差し、崖が光り輝いていた。既に見え始めていた星の数を数えていた♯882は目を細めて言った。

「どこか湖の岸辺に寄せてくれないか? そこで夜を明かすよ」

「おいおい、おれたちはアンドロイドじゃないか」

「それが?」

「おれたちの目ン玉には暗視装置が搭載されてる。それを使えば、視界は真昼みたいになる。夜でも漕げるぜ」

「そうじゃなくて、動きたくないんだ」

「なんで?」

「それが旅の醍醐味だからだよ」

「夜に動かないことがか?」

「うん」

「おれは舟を漕いでいたいんだけどなあ」

「じゃあ、湖のなかをずっと漕いでいればいい。朝日が出たら、合流しよう」

「お断りだね。おれは川下り屋だぜ。人を乗せた状態で漕がなきゃ、沽券にかかわる」

「とにかく湖に入ったら岸辺で降ろしてくれ」

「そんなこと言って、降りたら逃げるんじゃないだろうな?」

「そんなことしないよ」

「本当に?」

「うん。自分でも意外だけど、この川下りが楽しくなり始めたんだ」

 二人が流れ込んだ湖はかつて大都市だった。それが落ち窪んで水が流れ込み、この五百年は湖として存在していた。二人は九十八階建てのビルの屋上に舟を寄せた。ビルは九十八階の天井まで水に沈んでいたし、ビル自体がやや傾いていたから、屋上の半分は水に浸っていた。まず♯882が降りると、♯735は繋留ロープを結ぶための適当な棒杭を探した。このビルは大崩壊前あらゆる商品とサービス(マサイ族の狩猟用爪楊枝から偵察衛星を利用した記念撮影サービスまで!)を提供していた総合商社であった。にもかかわらず、いまではその屋上に丸木舟を繋留するために必要なでっぱり一つ提供できなかった。屋上の手すりはすでに錆びてボロボロだったし、貯水タンクは倒れて、湖の底の引越し会社のトラックの上に横たわっていた。他に屋上にあるものは物干し竿立てに使っていたブロックだけだった。結局丸木舟は♯735に片手で軽々とかつぎあげられ、水辺から五メートル離れた場所にそっと置かれた。

 残照で薄れて見えていなかった最後の星があらわれて、夜が始まった。二人を囲むのは静かな水。その暗く閉じた水面の下にはかつて数百万の人間が何かを消費し、何かを生産した大都市が眠っている。たとえば、かつてこの大都市のファストフード店では一日に十万個のハンバーガーと十万杯のコーヒーが生産され、やはり十万個のハンバーガーと十万杯のコーヒーが消費された。シカゴのユニオン・ストックヤードで解体された牛もサンパウロの大農園で収穫されたコーヒー豆も大都市の生産と消費の魔法にかけられて、この場に引き寄せられたのだ。ただし生産と消費の魔法を会得するのと引き換えに大都市は呪いをかけられた。最盛期にあってもこの大都市には住民が一人もいなかった。夜も更けると全てのビルは空っぽになった。人々は都市をただ生産と消費のための場としてしか考えず、夜とともに郊外の住宅地に逃げていった。

 そうまでして消費と生産に身を捧げた大都市が現在提供しているものは二体のアンドロイドが休むための小さな島だった。

 #735は丸木舟のなかで横になって星空を眺めながら、初めて客を乗せて川を下った余韻を楽しんでいた。♯882は水辺に膝を抱えて座り、湖面に映った星空を見ていた。それはまるで都市が甦ったようだった。♯882はそこに地獄を見てしまった。自分が死んだことを知らない亡霊たちが水のなかでLED電球を灯して、払われることのない残業代や走ることのない終電の心配をしながら、来ることのない明日のプレゼンのために資料を用意しているのだ。

「#882は何のために旅をしてるんだ?」#735は舟で横になったままたずねた。

「花の下で春に死ぬために旅をしているんだよ」#882は答えた。

「だいぶ下流に下ると、よく分からん色の花が咲き乱れている場所に出る。その花は川の上を覆いつくすほどの勢いで咲いてるから舟はどうしてもその花の下をくぐらなきゃいけない」♯735は起き上がって言った。「頼むからおれの舟で死なないでくれよな。まだ自殺者も死亡事故も起こしたことのないのがおれの自慢なんだ」

「死んだりしないよ。それに今は春じゃなくて初夏だ。僕が死ぬのは如月の望月。それも桜の花の下で死ななきゃいけないんだ」

「花なら何でもいいってわけじゃないんだな」

「そうだね。それに月もかかっていないといけない。パンケーキみたいにまんまるの満月がね」

「それで死ぬのか?」

「死ぬ。というより、動作を永遠に停止するっていったほうが僕らアンドロイドには適切な表現だね」

 #735はまた丸木舟のなかに転がり、腕を組んで考えた。しばらくして彼はまた起き上がりたずねた。

「それって『武士道とは死ぬことと見つけたり』っていうのと関係あるのか?」

「いや。関係ないよ」

「まさかお前、切腹マニアとかじゃないよな?」

「違うよ。そもそも切腹マニアってなに?」

「分かんね。でも頼むから切腹とかしないでくれよな。舟が汚れるから」

「切腹なんてしないよ。切腹マニアもいない。どうしてそんなこと言い出すんだ?」

「あんた、刀下げてるじゃないか」

「これは僕が製造されたとき割り当てられた武器ってだけで、別に侍らしく生きようって自己表現じゃないんだよ」

「そうか。それならいいんだ」

 #735は今度こそ安心しきって舟のなかに寝転んだ。見上げた星空は彼が川下り屋として成功したことを祝して打ち上げた花火の残光のようだった。彼は#882のように今日という一日を振り返った。客を乗せた一日。十二年間の待機期間が一度に報われた素晴らしい一日だった。そして、もう何時間かすれば東の空からねじくれた燐のようにぎらついた太陽が顔を出し、#882から新たな船旅が催促される。彼を信じられない幸せに浸らせているのは、あの素晴らしい一日が夜明けとともにもう一度やってくるということなのだ。

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