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西行法師に憧れて  作者: 実茂 譲
12/25

11.

 一つのボイラー、一両の炭水車、二つの走行装置、十二の動輪を持つ蒸気機関車は♯882を乗せたまま、水流に押し上げられた。水流には機関車が飛び跳ねるほどの勢いはなかったが、それでも機関車はその上半分を水上に晒して、モーターボートのように水面を走ることができた。既に雨は止み、分厚い雲の切れ間からオレンジ色の光線が漏れ出していた。光線は雲から漏れ出したときが最も強く輝き、高度が下がるほどに光の強さは弱まっていく。しかし、水面にぶつかった瞬間、光は息を吹き返し、限りなく細かい泡の蒔絵を施したように水面を輝かせた。

 裂けた雲のあいだに星空が見えるころ、洪水が勢いを失い、徐々に水位が低くなっていった。魚たちはいずれ干上がるであろう水溜りに絶望的に取り残され、蒸気機関車は砂漠の丘の上にゆっくり静かに停車した。空気に晒された機関車は静かに錆びて土に返るだろう。

 ♯882は運転室から降りて、空の星を映す水溜りが散った砂漠を見渡した。そして、あるはずのないプラットホームとあるはずのない駅舎、そしてあるはずのない客車に想いを馳せた。あるはずのない夏の暑い日差しを感じながら、彼はあるはずのないパナマ帽で顔を仰いだ。風が心地よかった。あるはずのない世界では彼の髪は黒く、目はこげ茶色だった。彼は切符を手にしたまま客車の踏み段に足を乗せて、車内に入った。がらんとした三等席に数人だけ客が乗っていた。富山の薬売り、紺絣りを着た書生風の青年、角に真鍮をはめた革カバンをさげた山高帽の役人、年老いた高野聖、学生服の少年とその母親らしき女性。

 異星獣もろとも自爆して果てた#67B2もいた。窓際の席で赤煉瓦の駅舎を、何をするともなく眺めていたが、♯882に気づくと嬉しそうに微笑んで手をふった。彼女の着ていたものは風を受けると袖がたっぷり膨らむ白のブラウスにトルコ石のブローチ、紺のスカートで麦藁帽子はつばが膝に当たるようにして座席の上に置いてあった。彼女の髪も黒く、目はこげ茶だった。

 ♯882は彼女と向かい合う席に座った。彼の手には切符が握られていたはずなのに、今ではなぜか始めから彼女と出会うことが分かっていたかのように二本のラムネが彼の両手に握られていた。

「飲む?」彼はたずねた。

「いただきます」#67B2はラムネを受け取ると、ぺこりと頭を下げた。二人はポンと瓶の蓋を叩き、泡が吹き出す前に急いで、口をつけた。真夏のラムネはさわやかで全部飲んでしまいたいくらいおいしかったが、やめておいた。まだ中身の残っているラムネの瓶を窓際に置いて、日光の差す瓶のなかで気泡がくるくると上っていく姿を見たかったからだ。

 二人はラムネ瓶を窓際に置いた。そして、二人は汗をかいて木製の窓枠をじんめり湿らせているラムネ瓶を観察した。瓶の内側では小さな気泡が生まれては旅立ち、水面にぶつかってパチンとはじけた。その様子にうっとりしていると、お互いに相手が同じことを考えたのだと分かって、二体のアンドロイドははにかんだ。

 汽車が発車し、ガラスが震えだした。汽笛が見渡す限りの田舎風景に鳴り響き、案山子の腕にとまっていた雀が羽ばたいた。駅舎とプラットホームが遠ざかり、水田が跳ね返す光に溶け込むように消えていく。汽車は村落や森が散らばる山肌のなだらかな平野を進んでいった。

「炭酸の泡が水面にぶつかって消えるのを見ると」#67B2は同意を求めるようにたずねた。「ほっとしますよね?」

 うん、と答えて、♯882は言った。「泡は水面にぶつかって消えたんじゃなくて、空気に迎え入れられたんだって気がしてくる。これまで炭酸水のなかで一人ぼっちだった気泡が水面から飛び出したことで窒素や酸素、他の二酸化炭素たちに仲間として迎え入れられたんだって思えるからなんだろうね」

「人が死ぬのもそんな感じなんでしょうか? わたしはアンドロイドだから分かりませんでしたけど、そうだったらいいなと心から思うんです。ガラスにくっついてた泡が離れていくように魂も体から離れて上のほうへ、水面のような天国へ上っていって、それまで死んだたくさんの人たちの魂に合流する。そこでは魂は先に逝った愛しい人たちと再会することができるし、振り返れば水面を通じて、まだ生きている愛しい人たちを見守ることができるんです」

「きみは相変わらず微笑ましくなるほどにロマンチストだね」♯882はからかうように、だが、心から嬉しそうに言った。

「そうやって馬鹿にしますけど」#67B2は少し拗ねたように言った。「たぶん♯882さんの影響ですよ。わたしがこんなふうになったのは」

「そうかな?」

「そうですよ」

「本当に?」

「絶対そうです」

「そこまで言われると、そうなんだろうね」

「ね、そうだったじゃないですか」

「うん、そうだったね」

 そう納得して、二人はまたラムネを飲んだ。ビー玉が瓶のなかでコロコロと鳴いた。

「この音はさしずめ天に昇る魂の鳴き声です」#67B2が言った。

「また妙なことを言うね」

「人の魂は銀色に光る猫のような形をしてるんです。だから、これから天に昇るのがうれしくて喉を鳴らしてるんですよ。コロコロって」

「#67B2はもし引退できてたら、保母さんか物語屋さんになっていたね」

「銀色に光る猫は♯882さんが教えてくれた話にヒントを得ました」

 ああ、あれか。♯882は以前、#67B2に吾妻鏡の逸話を話したことを思い出した。なぜ刀の鞘に銀の猫がプリントされているのかたずねられたので由来を答えたのだ。鶴岡八幡宮で出会った西行法師と源頼朝が歌や武道のことで話し合い、楽しんだ頼朝は褒美として西行法師に高価な銀の猫を与えたが、西行法師は館を出ると、そばで遊んでいた子どもにその銀の猫を惜しげもなく与えてしまった、という話だ。この逸話を聞いた人は普通ならそんなふうに無欲に生きてみたいものだと思うが、#67B2は銀色の猫はどんな声で鳴くのかとしつこくたずねてきた。銀色の猫は生きている猫ではなく、銀でできた置物だから鳴かないと教えると#67B2はひどくがっかりしたのだ。

「♯882さんの銀の猫はコロコロと鳴くんですか?」#67B2はラムネの瓶を左右に軽く傾けてビー玉を鳴らした。

 違う。♯882の銀の猫はシャーッと鳴く。抜き様に異星獣を斬ろうと刃が鞘走り鉄がこすれたときのようにシャーッと鳴くのだ。

「そうだね」#67B2が仲間をかばって自爆する直前に見せたほっとしたような笑顔を思い出し、♯882は嘘をつくことにした。「嬉しくてコロコロ鳴くんだ」

 #67B2はそう聞くと嬉しそうに瓶の中のビー玉をコロコロと鳴かせた。

 ♯882はほっとした。安堵のあまり自分の強化骨格がガタガタに緩みそうなくらいだった。彼は嘘をつきながら、自分のついた嘘のせいでこの幻影がガラガラと音を立てて崩壊するような予感に襲われていたのだ。予感はむしろ確信に近かった。だが、何も起こらなかった。ビー玉にヒビが入り、空にヒビが入り、#67B2の嬉しそうな顔にヒビが入り、ガシャンと音を立てて大崩壊後の世界があらわれて、彼をマレー式の蒸気機関車と一緒に夜の砂漠に取り残していくようなことは起こらなかった。機関車は草原を走っているし、彼のビー玉は汽車がガタゴト揺れるたびに光を跳ね返しながらコロコロと音を立てている。そして、黒い髪でこげ茶色の瞳をした#67B2は幸せそうに目を細めている。ただ彼女の胸に飾られたトルコ石だけは、彼らの本当の瞳が何色か思い出させようと哀しげに光っていた。

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