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西行法師に憧れて  作者: 実茂 譲
11/25

10.

 遠い南の空にやや季節外れの入道雲が湧き上がった。大崩壊前の人々は雲のことなどいちいち気にして生きたりはしなかった。人間の眉の下についた二つの目玉は〇・一秒の速さで更新されるネット配信動画や株式市場の浮き沈みを見つめるのに忙しく、空を漂う雲のことなど、どこか山奥の地方自治体が村おこしのつもりでつくった不細工なマスコットキャラクターのように寂しく無視していくものだった。しかし、大崩壊前の世界には不細工なマスコットキャラクターを専門に網羅するマニアはいたし、雲について言えば気象予報士を目指す人々がその動向に注目してくれていた。また漁師も雲をよく見る人たちだった。彼らは雲の形と色合い、雲の底の影の差し方を見ただけでその日どれだけの風が吹き、どのあたりで雨が降り、そして、どのくらいの魚が獲れるのかをかなり正確に予測できた。件の入道雲を見たら、漁師たちはどんな反応を示しただろうか?

 湿地帯に散在する水場を避けるために南西へ北西へとジグザクに歩いていた♯882の目にはその入道雲がいつも同じ大きさに見えていた。つまり雲と彼の距離は常に一定に保たれているということだ。日が暮れて、入道雲がハッとするほど深みのある美しい陰影を見せたとき、♯882は濃藍の水をたたえた池の岸辺を北西に、つまり雲に背を向ける形で移動していた。たとえ南西に移動していても♯882は雲を見たりしなかっただろう。というのも彼のすぐ横の池のなかにはマレー式蒸気機関車がほぼ完璧な保存状態で沈んでいて、彼の視線はそこに吸い寄せられていたからだ。その機関車は引っぱり出して、レールに置いて、石炭をくべてやれば、白い蒸気と黒い煤を噴き出しながらすぐにでも走り出しただろう。だが、今、蒸気機関車は池の中にあって、その煙突は黒煙の代わりに小魚の群れを吐き出した。小魚は西日が反射してきらきらしている水面のすぐ下をしばらく泳ぎまわってから、皮肉な文句を売りにする警句屋ですらうなり声をあげたくなるような銀の閃きを見せて、蒸気機関車の煙突へと舞い戻っていった。その様子のあまりにも美しく、そして面白いのに浮かれて、♯882は入道雲がじりじりと距離をつめ、しかも大きく膨らみながら東の空へ回り込もうとしているのを見逃した。

 次の日からは豪雨に見舞われた。灰色の空の下、灰色の雨が降り、湿地帯全体が灰色の水しぶきを上げるなか、♯882は相変わらずジグザグに西を目指していたが、そのうちついに行き止まりになった。水かさが増えて池と池同士がつながって、大きな淡水の海を作ろうとしていた。いまや彼の立っている場所は標高数センチの小さな島の丘に過ぎなかった。水が膝までくると、自分はアンドロイドなのだから、水のなかで呼吸ができなくても問題はないと自分に言い聞かせた。東から風が吹き始めてからはさすがに危ういかもしれないと思い始めた。戦闘用アンドロイドなのだから強度はある。だが、洪水にまともにぶちあたるくらいならまだ救いはあるが、水に押し流されて岩が飛んできた場合は多少の損害を覚悟しなければならなかった。彼は悔やんだ。あの入道雲めはきっと雲の世界の邪悪な司令官だったに違いない。いまは東にありったけの雨雲をかき集めて、ノアの大洪水の再現をやろうとしているのだ。

 東からまず水に押し出された空気が突風となって♯882に吹きつけられ、続いて一度に九本の雷が轟いたような音とともに全てを押し潰す圧倒的な質量の水が襲いかかった。

 水に呑まれた♯882が最初に感じたのは流れの激しさではなく、その水の温さと透明さだった。水が灰色に見えていたのはただ雲の色を映していただけで、洪水のなかは数十メートル四方を見渡せるほどに澄み渡っていた。湿地帯に散らばっていた池の水がうねりながら、洪水に合流すると池の底に沈んでいた過去の遺物――二階建てバス、五階建てビル、時価数千億円相当の宝石を保管した大金庫――が姿をあらわし、入道雲司令官を頭に頂く大洪水の軍団に加わった。

 魚たちも泳いでいた。いくつもの流れに分かれて泳ぐ魚の群れを見ていると、大洪水は一つの水の塊ではなく、何千何万もの太い水の束が組み合わさってできているのだということが分かる。赤い小魚と青い小魚の群れが泳いでいる二つの流れは時に接し合い、時に喧嘩別れしたかと思えば、一つの流れに合流し、赤と青の小魚が混ざり合って紫色の幻影を垣間見せることもあった。水の束は再び上下に別れ、青い小魚は底へ底へ、赤い小魚は上へ上へと突き進み、ついに赤い小魚たちは水面から次々と飛び出していった。赤い小魚たちは錯乱して隊列を乱すことなく着水し、数万本の水の束が作り上げる洪水の秩序に従って前へ前へと泳いでいった。空への挑戦を果たしたためか、赤い小魚の泳ぎぶりは青い小魚よりも自信に満ち溢れ、頼もしく見えた。

 そんな束状に流れる水の一つが例の蒸気機関車を走らせていた。水面と水底のあいだのちょうど真ん中を何一つ損なわれていない蒸気機関車が時速六十キロで流れている。運転室の窓の下には《9750》と銘打たれた金属のプレートがかかっていた。蒸気機関車にできることがアンドロイドにできないはずはないと思った♯882はただめちゃくちゃに流されるのではなくて手足を広げて水を切り、体を水の流れに抗うのではなくて合わせることによってバランスを取ることに成功した。すると空を飛んでいるような(あるいは人間大砲の曲芸師になったような)錯覚を覚えるほどうまく水の流れに乗れたので、嬉しくなった。彼の眼下には過去の遺物を吐き出して間抜けに口をあけたかつての池や沼たちがあり、彼の頭上には激しくしかし優雅に流れる水の束が幾重にも重なり、水の束の一つがちょうど右フックを打ち込む要領で空に切り込もうとしていた。そして、彼の右三十メートルやや後方にはナガスクジラのような蒸気機関車――環境保全や低燃費エンジンがはばをきかせた世界に抗い続けた気骨ある美術品――が機関士の到来を待っていた。水流の束は互いに近づき合い、マレー式蒸気機関車と少年型戦闘用アンドロイドもまた互いの距離を縮めていった。

 ♯882がまったく抵抗を受けることなく機関車の運転室にするりと滑り込んだ瞬間、その前方百メートルを流れていた特殊合金の棒がすっぽ抜けて大金庫の扉が弾け飛び、宝石が水中にばら撒かれた。大崩壊前、金庫製造会社のセールスマンは銀行の頭取たちを前にして、この金庫は一万年後の大洪水にだって耐えてみせると豪語したにもかかわらず、当の金庫は数世紀と経たないうちに白旗を上げた。今やロックフェラー財団やブルネイ王室の持ち物だったルビー、サファイア、エメラルド、ダイアモンドが際限なく流れ出し、マレー式蒸気機関車と少年型アンドロイドの進む航路に祝福の光を投げかけていた。

 デ・ビアス社が掘り出した中でも最も大きなブルーダイアモンドが窓のすぐそこを――♯882の目と鼻の先をゆっくり通り過ぎていった。その石はどの角度から眺めても、一度に百三十七の独立した煌きが目を射るようにと、最高の職人によってカットされていた。そのために♯882の心にかすかな哀しみが飛来した。なぜなら、この石を刻んだ人間が光と面と反射の全てを知り尽くしていたからだ。そして、その職人が光と反射に仕えるために犠牲にしたもの――家族や友人、穏やかな余生など――が百三十七の煌きのなかに映っていたからだ。

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