9.
原生林が尽きると、砂漠が広がり、また樹海があらわれて、谷にぶつかった。谷の底にはかつて高速道路が敷かれていて、錆びた自動車たちが玉突き事故を起こしたときの姿のまま、思い思いの方向を向いて、悠久の時間のなかをゆっくりと朽ち果てていった。たまに♯882が気まぐれを起こして、南西へ針路を変えると一日ごとに森と砂漠と湿地帯が入れかわり立ちかわりやってくることもあった。
大崩壊が始まり異星獣が空から降ってくると、母なる自然もまたやりたい放題にふるまった。その有り様ときたらアンティーク・ショップのなかで手錠と足かせを外された凶悪犯のようだった。川を曲げ、土から緑を奪って砂を撒き、海を丘に巻き上げたかと思えば、丘を湖に変じて、美麗な山脈を思い思いの形にこねまわし、どんな豪雨が降っても草の芽一本吹くことのない不毛の大地を作り出し、かつてユネスコが設定した自然遺産の数々を引っ掻き回して雲散霧消させた。いまやアマゾンの熱帯雨林は世界最大の砂漠と化し、この世で最も美しい砂の世界と謳われたナミビア砂漠は大西洋の底にあった。大崩壊が終わってだいぶ経ってもまだ、母なる自然という名の凶悪な乱暴者は砕けた景徳鎮や折れたスネークウッドのステッキ、踏み潰されたロシア皇帝のイースター・エッグが散らばるアンティーク・ショップに息を潜め、何か壊せるものが割れたガラス扉をまたいでやってこないかとハンマーを握りしめて待っているのだ。
♯882は寝る必要はなく、食べる必要はなく、半永久的に動くための動力源を持ち、疲労も苦痛も感じず、夜間には視界を暗視モードに切り替えて何不自由なく移動できるにもかかわらず、日が暮れてからも旅を続けようとはしなかった。彼は日が暮れる前までには森のなかの開けた草地や人一人横になれる岩棚、急浮上して水面に飛び出した潜水艦のように草原から斜めに突き出た岩のてっぺんなどロマンチストの旅人なら必ず陣取るであろう場所を見つけ、そこでその日一日の旅を振り返り、次の一日に見るであろう景色を夢想した。
コロニーを離れてからちょうど一ヶ月経った日の夜は大樹の洞で横になった。柔らかい苔の上で刀を胸に抱えて、洞の天井から滴り落ちてくる水滴を見ていた。人の目には水滴はぶつかってから砕けるように見えるだろう。だが、実際の水滴は空気とこすれて、さらに細かい水の粒を無数に生み出しながら落ちてくるのだ。梢を離れた水滴が軽く立てた彼の膝に当たって砕け散るころには、すでにその倍の数の細かい水の粒が空気中を漂っている。人は水を川や海、流れ落ちる滝や瓶詰めされたミネラル・ウォーターとしてしか認識できないが、アンドロイドは粒子として水の姿を見ることができる。そして、水の粒子たちは大きな野望を秘めた若者のように無限の可能性に打ち震えながら、雫、水溜り、流れ、そして最後の目的地である海へと回帰することを夢見ているのだ。
一日の旅を振り返ったり、落ちてくる水滴に魅了されたりしない夜はだいたい異星獣と戦っていた。飛び違いざまに毛むくじゃらの腕や節ばった触手が斬り落とされると、異星獣は苦痛に我を忘れて暴れまわった。この異星獣は卵から孵化し、まだ卵の状態の兄弟たちを食らって成長し、巣から這い出てからは他の生物を貪欲に食らって、大きくなったのだ。かつて、そうした異星獣の生態を「まるでわたしたち人類の文明の縮図ね」と嘲るように刑部大尉が言ったことがあった。「生まれた瞬間から他の文明を襲って食らいつくして肥大化し、それでもまだ足りなくて……」
刑部大尉は♯882がその手で殺した唯一の人間だった。大尉はすでに異星獣に卵を産みつけられていて、一時間もしないうちに異星獣の赤ん坊によって子宮から内臓を食いつくされるのが分かっていた。「頼む、♯882。わたしを殺してくれ」刑部大尉は哀願した。軍曹の両腕はもげてその肩からは折れた骨と筋にからまった血管を残すのみだから、銃は握れなかった。痛みで震えて歯が噛み合わず、舌を噛み切ることもできなかった。「殺してくれ。お願いだ」ついていないことに周りには♯882しかいなかった。大尉は自分をバケモノごと焼き尽くしてくれと言った。「骨の欠片も残さず焼いてくれ。頼む」できません、大尉。♯882は困惑して言った。僕はアンドロイドです。アンドロイドが人間を傷つけることは禁止されています。「今のわたしは――もうじきわたしは人間ではなくなる。バケモノの養分になってしまう」
♯882はそれを無視することもできた。刑部大尉の死体から異星獣が孵化したところを殺せば彼は任務を遂行したことになる。それに大尉の両腕はひっくり返した切り株のようになっていて、かなりの量を出血している。じきに意識不明に陥って、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなるだろう。
アンドロイドが人間に手をかけるのは一大事だ。コロニー評議会に知れたら、廃棄対象にされるだろう。♯882に危険を冒す必要はなかった。「人間であるうちに死にたい」刑部大尉の目から涙が流れた。気丈で厳格な人だったから、その目が睨みつける以外の用途で使われることなど想像もできなかった。普通のアンドロイドならリスクを考慮して大尉の頼みを無視しただろう。だが、♯882は西行法師の歌を知っていた。願わくは――。ffhB-334の刃は一瞬で絶命できるよう肋骨のあいだを通って、刑部大尉の心臓を正確に突き、大尉の骸と異星獣の卵が炭になるまでチャージを打ち込んだ。