#1 月影の雫
これは遠い遠い世界のお話。
ここでは動物達が、まるで人の様に衣服を纏い二本脚で歩いている。
さて、広い荒野をヨロヨロと歩いているのは、どうやらオオカミなのだが……
着物の袖や裾から、ちらりと覗く腕や脚は、オオカミのそれとは思えないほど細く頼りなく映った。
「城が……見える……」
荒野の先に微かな希望を見いだして、最後の力を振り絞り引きずるように歩を進める。
拾った棒を杖代わりにして、よろよろと、少しずつ、少しずつ前へ。
しかし、食べ物はおろか水さえも口にせず、三日三晩ずっと歩き続けてきたのだ。
目は霞み、口の中には唾すら出ない。
もはや限界。
ばったりとオオカミが倒れると砂ぼこりが舞い、それが舌の上でジャリジャリと音を立てる。
そして、薄れ行く意識の中で、ふと目の前に何かを発見した。
「こんな荒野にたった一人で……君は、私よりも強いのだなあ」
それから暫くすると、オオカミは静かに目を閉じてしまう。
空の上には、それはそれは美しい、まあるいお月様が浮かんでいた。
ところ変わって普段は誰もいないはずの林の中。日もどっぷり暮れているのに、なにやら話し声が聞こえてくる。
声の主は、イノシシとヤマネズミであった。
さて、ぎろりと睨んだ目はつり上がり、きらりと牙を覗かせた口は、ぐいっとへの字に曲がり、イノシシは、低い声を響かせて不思議そうに訊ねてきた。
「できない?何故だ?」
小柄なヤマネズミは、ぶるぶると体を震わせながら弱々しく言葉を返す。
「む……村の外には毒蛇もいるし、それに……」
ヤマネズミが続けようとすると、イノシシが、遮るように言ってくる。
「そんな事はワシも知っておる」
では、どうして? と目を丸くするヤマネズミ。イノシシの声は一段と低くなり、大きな顔をずいっと近づけた。
「友の頼みを簡単に「できない」と断るのは何故だと聞いておるのだ!」
あまりの迫力に、きゅっと身をすくめるヤマネズミ。
そんなことは一向にお構い無く、理不尽な演説はどんどんと続いていった。
「元々は、ワシが自分で摘んでくるつもりだったのだ。だがワシは今晩、城で見張りをせねばならん。だからお前に代わりを頼んでいるのだ。一国の軍の隊長であるワシが直々に頭を下げておるのだぞ」
ここまで一気にまくし立て、一旦ゆっくりと息を吸う。
そして……
「お前が断る理由など無いだろうが!」
物凄い怒声に寝静まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った!
ヤマネズミは、かちっと硬直したまま、こう答えるしかない。
「……うん」
すると、イノシシの目尻はみるみる下がり、口元もすっかり揺るんで満面の笑みを見せる。
「やっぱり、お前は最高の友だな」
そしてそのまま、とぼとぼと林の外へ歩いて行くヤマネズミの後ろ姿を、手を振りながら、にこやかに見送るのだった。
林の外には、鬱蒼とした茂みが広がっていた。
「入りたくないなあ」
茂みを前に躊躇するヤマネズミ。ふうっと息をついたあと、ゴクリと唾を飲み込む。
意を決して踏み出すと、ガサッと物音が!
「ぎゃっ!」
ヤマネズミは思わず跳ね上がってしまう。
だが、それは自分の蹴飛ばした石ころが草むらに飛び込む音であった。
「はあ……」
ほっとしたのも束の間。今度は目の前に黒い影が!
「ひゃん!」
自分の影だった。
「ああ……」
影の反対側を見ると、夜だというのに目を細めたくなるほど明るい。
「今夜は満月だもんな……そうだ、これだけ明るいなら茂みの無いところまで行けば小さな毒蛇だって、こちらが先に見つけられるぞ」
そう思い立ったら一目散に駆け出していた。
小心者かと思えば、けっこう決断力があるのだろうか? いや、半ばやけくそなのであろう。必死の思いで茂みの中を走る走る。
「はあっ……はあっ……お願いだから、はあっ……はあっ……出てこないで」
毒蛇に出会さないで欲しいと祈りながら、全速力で走る。
途中で何やら二度ほど違和感を覚えたが、そんな事は一切構わずひたすら走る。
「抜けたーっ」
茂みから抜け出し安堵の表情を浮かべるヤマネズミ。その目の前には一面に荒野が広がる。
「思った通りだ。地平線まで見渡せるぞ」
ぐるりと一望して、一歩前へ進もうとした直前、ヤマネズミは脚を止めた。
「こんなところに蟻さんがいた。危なく踏んづけるところだったよ」
心優しいヤマネズミ。特に自分よりも小さな者には絶対に危害を加えようとはしない。
「さ、早く巣へお帰り」
しかし、ヤマネズミは気付いていなかった。
ここまで駆けてくる途中で毒蛇を二匹も踏み殺していた事を……
イノシシの方は、見張りの任務のため既に城へ戻っていた。しかし、何故か誰かの着替えを待っている様子。扉が勢いよく開くと中から若い娘が飛び出した。
「隊長、ありがとう!」
真新しい着物に身を包み、嬉しそうにひらりと回る可愛らしいキツネ。
「お花の刺繍も素敵だわ。これは『月影の雫』ね?なんて綺麗なんでしょう」
その姿を満足そうに眺めているイノシシである。
「それは隊の者達みんなからの贈り物です。それから、誕生日には一日遅れますが、ルナ様には本物の月影の雫も贈らせていただきます」
キツネは、この国の姫で名を『ルナ』という。
「本当!とっても嬉しいわ」
子供の様に、ぴょんぴょんと跳び跳ねるルナ。
しかし、三度跳び跳ねると急にぴたっと固まり、何かを思い出して眉をひそめる。
「ルナ様、どうされました?」
「うん……月影の雫は、満月の夜にだけ、広い荒野にたった一輪しか咲かないと言われているのよ。満月の夜は今夜なのに、いったいどうやって手に入れたの?」
イノシシはこの質問を予測していた様で「ふふふ」と含み笑いをした後、したり顔で答えた。
「自分には信頼できる友がおります。今、友はこのワシの代わりに花を探しておるところ。いや、奴なら既に見つけているやもしれませぬ」
それを聞くと、どうやら安心した様で、ルナにまた笑顔が戻る。
「じゃあ、きちんとお礼をしなくちゃいけませんわね。その『トモ』さんという御方に」
イノシシの友、ヤマネズミは未だに月影の雫を見つけられないでいた。
「まだ見つからないよお」
焦るヤマネズミの目に涙が溜まる。
「荒野に一輪って話は本当なのかもしれない……向こうの村の近くで咲いていたら、絶対に見つけられないじゃないか」
すっかり疲れてしまったヤマネズミは、大きな岩に腰掛けて少しの間休むことにした。
ぼーっと、月や点在する岩を眺めいたヤマネズミ。すると、円らな瞳を突然パッと見開いた。
「あっ、忘れていた。月影の雫は、月の光が届かない岩影などに咲くと噂があったっけ」
手がかりを思い出すと、休憩もそこそこに、大きめの岩の周りに絞って探し始めるヤマネズミ。
あちらの岩へとテケテケ走っては覗きこみ。こちらの岩へとスタスタ走っては覗きこむ。
だが、やはり中々見つからない。
それでも諦めずに探し続けて、いくつの岩影を覗いたか分からなくなった頃、ヤマネズミはとうとう見つけてしまった。
「お……オオカミの死体だあーっ!」