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富田咲雨の稀ならぬ日常

作者: あっきー

 富田咲雨は紙パックのカフェオレをずずい、と飲み干した。引っ越しの手伝いを済ませた両親はとっくに帰り、電子時計だけがまだ物の少ない部屋で八時半を回ったことを告げる。昼に菓子パンを齧っただけの彼女の胃が、当然のように食を求めて鳴った。まだか、夕ごはんはまだなのかっ。ところが彼の主である咲雨は悲しげに炊飯器の中を覗くと首を振った。そこには明らかに水の分量を間違い、ぐちょぐちょになった米が湯気を立たせている。

 咲雨はこの世に生を受け、物心をつけるまでにいつの間にか「おっちょこちょい」という性質を身につけていた。物を持たせればその意思に反して失くし、カップ焼きそばはお湯と同時にソースも投入し、あまつさえ湯切りの際に麺を流しに流し、おおよそ人の業というべき業を受けたのではないか、と涙したこともある。

 そんな彼女にとって、炊飯をおかゆにするというベタな芸当はなんの造作もないものであった。ならばいっそ飲料で空腹が紛れはしないか、と真新しい冷蔵庫に買い置いた紙パックを取ったのだが、残念ながらそんなもので胃袋の機嫌は取れない。

 もちろん咲雨は、自分のミスでお米がおかゆになろうとそれを捨ててしまうような人間ではない。どころかお米を一粒のこせば失明するというおばあちゃんの迷信を未だ頑なに信じている。だから当然食べる。おかゆのような米ならばおかゆにして食べる。だが咲雨にとってそれはいまではない。なにせ今日は新生活の第一歩目を踏み出した日であり、それを水量調整に失敗したご飯で飾るのはあまりにあんまりだ。だから咲雨は決めた。節約するんだという野望を捨て決定した。今日は外食をしよう。

 咲雨は三月後半という時分には不適切な冬物のコートを羽織ると夜道に出た。咲雨のいた町は田舎だったので、彼女にとって日が落ちてもまだ明かりがついていてさらに人通りがあるというのは驚くに値する状況だった。どきどきし、わくわくしながらまず目についた中華料理店をそっと眺めた。金鍍金でその身を塗られた龍が入り口を飾るいかにも中華といった店構え。正直に言えば、女一人で入るには少しばかりハードルが高そうだったが背に腹は代えられぬ。営業時間は九時、いまならまだ間に合う。けれど残念なことにメニューの値段が彼女の歩みを止めた。高いのではないか。一人暮らし初日にこんな贅沢をしても良いものだろうか。そしてその迷いが生じてしまった以上、咲雨の中華料理屋に入る勇気は潰えてしまった。

 しかし、天は彼女に味方した。途方に暮れてあたりを見渡すと、中華料理の向こう三軒両隣の位置にゾウのステッカーが入り口に貼り付いているタイ料理店があるではないか。時間もまだ余裕がある。そしてタイ料理ならばそれほど値段も張らないだろう、と彼女は謎の固定観念持って今度こそ入店した。

 ためらいがちに足を踏み入れると、いらっしゃい、という声が彼女を迎える。人の良さそうなおばさんだ。タイ人なのかな、と彼女は無意味な当たりをつけてみる。狭い店内には男女のグループがすでにデザートに手を付けている。案内されたテーブルでメニュー表に目を通した。やはり咲雨の感覚からすれば高いものの、先ほどの中華料理屋よりはマシだ。だから値段はいいにしても、問題は料理の大部分がなんなのかよく分からないことであった。メニューに写真はなく、当然、おばさんに尋ねる勇気も咲雨は持ってない。となると、唯一名前を知っている料理を注文することになる。それはタイカレー、つまりグリーンカレーだ。

 やがてカレーは運ばれてくる。それが緑色なことに咲雨はぎょっとしたが、よく考えればグリーンと名がついているからにはグリーンなのは当たり前だった。咲雨は平然を装いながらまずは液体のようなルーを掬って口へ運ぶ。

 うまいと感じたのは一瞬。それを押し流すような辛さが咲雨の口内を犯した。ぅんっ、と思わず出た女性らしかぬ唸り声が男女グループの声に消されたのは不幸中の幸いだった。あふっ、あふぅ、咲雨はたまらず白米を口にかき込む。すると辛さはマシになり、どうにか痛みとうまみの両方が感じられるようになった。なるほど、こうやって食べるものなんだ、と彼女は一人で得心すると、次はご飯に緑のルーを恐る恐るつける。辛い。けど美味しい。なんとか食べられそうだ。

 調子よく食べていた咲雨だったが、半分ほどでようやく気がつく。このままだと、ご飯が足りなくなるというその事実に。絶望し、辛さで涙が目に滲み、刺激された鼻孔から鼻水が押し寄せる。これほどまでに自分のおっちょこちょいを恨んだ時もなかった。完食した咲雨は息絶え絶えになりながら会計を済ませ、滲む満天の星空に大学生活の目標を打ち立てた。


 タイカレーを食べるときはご飯のペースを考えるようにしよう。彼女は歩き出すと、それから三十分帰路に迷った。

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