練習
「ほら、大きく羽を広げてゆっくりと動かしてみるんだ。風を自分の体の下に抱き込むような感じで。」
翠子は言われたとおりバタバタと羽を動かす。周囲に大風が起こり、木々がゆさゆさと揺れたが、翠子の体は1ミリも浮かなかった。
ヤトは、大きくため息をつく。
頭まで抱えていた。
翠子はヤトと飛ぶ練習をしていたのである。
竜が飛べないなんて論外だと言うヤトと、この巨体だと飛べないと不便よねと思った翠子の意見が一致した結果だった。
…意見は一致し努力はしているのだが、残念ながらその成果は上がっていない。
翠子とヤトは顔を見合わせる。
今度は2人一緒にため息をついた。
…出会って丸1日が過ぎたのだが、翠子は自分が本当は“竜じゃない”ということをヤトに説明できないでいた。
決して隠しておきたいという訳ではない。
出会って間もないヤトを翠子はもう完全に信用している。元々イケメンに弱い翠子だが、ヤトには何だか人を無条件に信頼させるような何かがあるのだ。
(カリスマみたいな?)
他に頼れる存在がいないこともあるのだが、ヤトと一緒にいれば翠子は不安を抑えることができた。
だからそうではなくて、単に翻訳機能の限界の問題だった。
いくら優秀な翻訳機能でも、言葉どころか概念もない言葉を翻訳することはできない。
この世界には“異世界”があるなんて考えは存在しなかったのだ。
翠子が「自分は界渡りです。」と言ったら、翻訳機能は「私は”私”です。」と翻訳したようだった。
「そりゃお前はお前だろう?」
不思議そうにそう返されて翠子は途方にくれてしまう。
何度かのやりとりの後、翠子は説明を早々に諦めてしまった。
自分が竜でしかも赤ちゃんだなんて思われているのは嫌なのだが、翠子をそんな存在だと思っているヤトは凄く優しいのである。
その優しさはありがたいし、素直に嬉しい。
(大人だってわかったら、見捨てられるかも知れないし…)
多少の打算もあって、翠子はヤトの誤解をそのままにすることにしたのだった。
実際ヤトは、言葉使いはちょっと乱暴だが、飛ぶ練習に根気よく付き合ってくれたりと、面倒見はとても良い。
「本当に腹は減らないのか?」
出会ってからずっと何も食べない翠子を心配してくれるのも、何だか心がくすぐったくなるような気がした。
「うん。全然大丈夫。」
上機嫌で返したその言葉は、…遠慮でも強がりでもなく、本当の事だった。
自分でも不思議なのだが、翠子は何も食べなくとも少しもお腹が減らないのである。
考えこんで、そう言えば界渡りについて母が語った話で関係のありそうなものを思い出す。
…確か母は、界渡りが生きるのに必要なのは空間だけだと言っていた。
膨大なテリトリーを必要とする界渡りはテリトリー空間そのものの“広さ”を生きるエネルギーとするのだと。
そんなバカなと思ったのだがどうやら本当らしい。
界渡りとは本当に規格外の生物のようだった。