旅立ち 10
「アキは、私の前に落ちて来ました。飛べずに落ちて来たのです。その後もアキはとても竜とは思えない言動を繰返しています。それは私にとってはとても愛すべき嬉しい姿でしたが、同じそれを竜の眷族の方々が良しとしてくださるかはわかりません。あなた方の……あなたの与える幸せが、真にアキを幸せにしてくれるかどうかを確かめたい。それが私の望みです。」
「――――ヤト。」
本当にヤトは優しかった。その優しさに触れて翠子の目に涙が浮かぶ。
『そんな必要はない。』
「それを決めるのはあなたではありません。アキの思いが大切なのです。」
『生意気な!』
ロウドの怒りは膨れ上がった。
自分達より遥かに劣ると思っている人間風情に、ここまで言われて怒らぬ竜などいないだろう。
「あなたは、ご自分がアキを幸せにできる事に自信がないのですか?」
しかし、対するヤトは冷静だった。慌てる様子を少しも見せず静かにロウドに話しかける。
『彼女を幸せにするのは、私だ!』
「ならば、それを私に見せて納得させてください。」
竜と人間の男が、互いに一歩も退かずに睨み会う。
それは、いまだかつてない事だった。
緊迫する空気の中、突如ロウドの首が目にも止まらぬ早さで動く!
鋭い牙がヤトに向けられた。
「ダメッ!」
咄嗟に翠子が動くが間に合わない。
竜の口が今にもヤトを一飲みにしようとして――――止まった。
固まる翠子の目の前で、ヤトはピクリとも動かずに立っていた。
『逃げぬのか?人の子よ。』
口を開け、その牙をヤトの頭上数ミリの場所に止めてロウドが聞く。
「その必要はないでしょう」
ヤトは静かに答えた。
「私にかすり傷の1つでもつければ、あなたは二度とアキの心を得る事ができなくなる。あなたはそれがわからぬような愚かな方ではない。」
それはロウドにとっては不本意な事だが、実に正しい判断だった。
不機嫌そうに唸ったロウドは、渋々牙をおさめる。
慌てて翠子はヤトに大丈夫かと訊ねると心配そうに身を寄せながら背に庇った。
その姿は、ヤトの今の言葉を何より裏付けてくれる。
『小賢しい人の子が。』
「竜に対峙するのに、有効な手段を使わぬような余裕はありません。」
確かにヤトの言う通りだった。
ロウドは嫌そうに顔をしかめる。
『わかった。お前を人の国まで送って行こう。お前が望むのなら、そのついでにお前の敵を排除してやっても良い。それでどうだ?』
それは破格の好条件だった。
竜の力を使えるのならどんな事でも可能だ。それこそヤトの父王を裏切った現王を追い落とし再びヤトが王族に…王になることすら可能だろう。
だが、ヤトは首を左右に振る。
「私の望みは、アキと共に竜の国に行くことだけです。」
ヤトの言葉に迷いはなかった。




