穴の少年と変人
僕は煙草を吸わない。
でも、絶対に肺は真っ黒だ。
ここは、そういう町だから。
このコールタウンの真ん中には、大きな穴が開いている。
ここでは日々、坑夫によって石炭が掘られている。
掘った石炭で機械を動かし、さらに沢山の石炭を掘る。
そうしてできた余りを他の町に売り、得た金で機械を改良してもっと石炭を掘る。
この町はそれを繰り返す。
ずっと昔からそればかりを続けて、これからもずっと続いていく。
来る日も来る日も、穴を掘り続ける。
機械が上げる煙で空は見えず、穴の中の空気はじゃりじゃりとしている。
汚れた空気に加えて、働きづめだった僕は、無意識のうちに足を止めていた。
それにめざとく気づいた見張り番がムチを振るう。
「こら、さぼるな!」
布が裂けるような音を立てて、ムチが僕の背を叩く。
痛みで我に返った僕は、それ以上の罰を避けるため、慌てて石炭を積んだ台車を押して歩き出した。
叩かれた場所が熱を発していても、顔に出すのは我慢する。
そうしなければ、見張り番の嗜虐心をあおって、無意味な折檻を受けることになるからだ。
歯を食いしばって穴の上に続くエレベータまで行き、ゴンドラの中に掘った土砂を流す。
ちょうど僕のでゴンドラはいっぱいになったので、ゴンドラと一緒に上からぶら下がっているスイッチを押した。
ブザーが鳴り、ゴンドラが上昇していく。
僕はそれを見上げながら、急ぎ足でそこから離れた。
しばらくすると、さっきまで僕がいた場所に、拳骨よりも大きな石が落ちてきた。
ゴンドラからこぼれたものだ。
僕はほっと息を吐き、再び機械がうなりを上げて穴を掘る場所に戻る。
そうして台車に土砂を積み、またゴンドラに下ろす。
何度も何度も、それだけを繰り返す。
ここは、そういう町だから。
*
日が傾くと、穴の底には光が届かない。
それからは機械のライトを頼りに掘り進める。
機械から離れればそこは暗闇の世界。
それでも僕は体が覚えている道を通って土砂を運ぶ。
やがて、穴の中にサイレンが響いた。
それを合図に機械が轟音を吐き出すのをやめ、穴の中の人々はゴンドラの周りに集まる。
昼とは違う見張り番が、ムチを持った手を後ろで組み、がらがらにしわがれた声を出す。
「今日の作業はここまでにしてやる。遅れた分は明日中に取り戻せ。それができなければ、明日の飯は無いぞ、わかったな」
見張り番はそれだけ言うと、ゴンドラに乗って登っていった。
それを見届けると、その場の空気が少しだけ緩んだ。
そんな中、ゴンドラが戻ってくる。
一人の男が近づき、ゴンドラに積まれていた箱を開ける。
中に入っているのは、パンとスープだ。
人々は男の前に並ぶ。
僕も並んで今日の配給を受け取り、適当な場所に腰を下ろしてスープに口を付けた。
水分が、喉に溜まった煤や粉塵を流していく。
次いでパンにかぶりついた。
パンは固い。
両手で引っ張って、ようやく食いちぎることができる。
パンの断面は、僕の口の周りに付いていた煤やらで真っ黒になっている。
それを無心で見ながらスープを口に含む。
パンを十分にふやかしてから飲み込んだ。
もう一口とパンに噛みついたとき、隣に誰かが座った。
「今日はお互い、一発で済んだな」
暗くて表情は見えないが、僕には彼が笑っているとわかった。
しししと、空気が歯を擦る音が聞こえたから。
彼は穴の中で、変人と呼ばれていた。
僕たちは皆、この穴の外には出ることができない。
奴隷として穴の中に住まわされ、朝から晩まで穴を掘らされる。
誰もが疲れ切った顔で、絶望のうちに過ごす。
しかし、彼だけは違った。
穴の中にあってなお、彼は笑みを絶やさない。
「毎日毎日、あんなの何発も食らってたら死んじまうよ」
そう言ってからからと笑う。
僕はといえば、
「ムチ打ちなんて無くたって、僕らはいつか死ぬよ」
掠れた声でそう呟く。
彼は僕の言葉に、肩を揺すった。
「それもそうだな」
わかっているなら、どうして笑っていられるのだろう。
彼と話す度に、僕はそう思ってしまう。
でも、彼に聞いてみたことはない。
聞いたところで、どうせ理解できないと思うから。
僕はもう、自分が最後に笑ったのがいつだったか覚えていない。
穴に入ってから何年経ったか。
穴の中には暦も時計もない。
初めのうちは、太陽が昇った回数を数えていたけれど、書き留めておく物がないから、ある日いくつまで数えたか忘れて以来、ずっと数えるのをやめていた。
とにかく、長い時間が経った。
もう自分は、笑い方も覚えていないだろう。
試したことは無いが、なんとなくそう思う。
たとえ覚えていたって、顔にこびりついた煤が固まっていて、頬を持ち上げられない。
僕は残りのパンとスープを口に詰め込み、彼から離れた。
ゴンドラの箱の中にスープの椀を戻し、地べたに横になった。
奴隷たちには、寝るための布きれ一枚だって与えられない。
少しでも熱を逃がさないよう、体を小さく丸めて目を閉じた。
眠りに落ちる直前、いつも考える。
僕は明日、目を開けられるだろうか。
*
体の痛みに、僕は目を覚ました。
起きられたことに安堵し、同時にまた一日、苦しみが続くことに悲嘆する。
いつまでも寝転んでいては、見張り番がムチを持ってやってきてしまう。
僕はいそいそと立ち上がり、体を伸ばした。
丸めていた腰の骨が鳴る。
口を手で覆って欠伸をする。
目尻に浮いた涙を拭っていると、かすかにうめき声が聞こえた。
声のした方に目を向けると、誰かが胸を押さえてうずくまっていた。
もう駄目だ。
彼のように胸を押さえて、脂汗を浮かべたら最後。
長くても三日で死んでしまう。
それでも、見張り番はこうなった人間にだって容赦しない。
動けなくなっても、死ぬまでムチを打ち続けるのだ。
僕がせめて少しでも早く逝けるように祈って離れようとすると、彼は荒い息を吐きながら顔を上げた。
「あ」
思わず声が漏れた。
苦しげに顔を歪めているのは、穴の中で唯一笑顔を浮かべる彼だった。
僕が呆然と眺めていると、彼はゆっくりと立ち上がる。
そして、笑ったのだ。
自分の目が信じられず、僕は乱暴に目を擦った。
見間違いではない。
彼は顔は確かに、いつものように笑みで満ちていた。
「なんで……」
僕は大股で彼の前に出た。
「なんで笑えるんだ!」
突然現れた僕に彼は驚いたようだったが、すぐに歯の隙間から空気を漏らした。
「なんでって?」
「そう、君はもうすぐ死ぬんだよ! それなのにどうして、君は……」
「ああ、やっぱり俺は死ぬのか」
「自分のことじゃないか! 怖くないのかよ!」
「思ってたよりは、平気だな」
彼は体を折って咳をする。それが治まってからは膝に手をつき、地面に向かって話した。
「怖いっていうより、『満足』、かな」
「満足?」
「俺、ここに入れられる前は、檻の中にいたんだ。サーカスの」
僕は檻という言葉に息を呑んだ。
「像や熊みたく、檻の中に入れられて、首輪と手かせを付けられた。見世物だったんだよ。生まれてから一度も外に出たことがない人間って」
「檻から出たことがないって、本当に?」
「少なくとも、ものごころ付いた頃にはとっくに檻の中だった」
彼は、浅い呼吸を何度も繰り返して、顔を上げた。
それは、僕が見た彼の笑顔の中でも、一番幸福そうな笑顔だった。
「ある日サーカスが潰れて、俺はここに来た。檻の中が世界の全てだった俺にとって、ここの広さは驚きだった。めいいっぱい体を動かしても、檻に体をぶつけなくて済む。それは幸せだ。俺は自由を手に入れた。だから、満足」
僕はどうして彼がこんな穴の中で笑っていられるのか理解した。
彼には、ここでの日々が単純に絶望ではなかったのだ。
それ以上の深い絶望を知っていたから。
やっぱり、彼の笑みの理由を理解しても、僕には笑えなかった。
僕は、ここ以上の苦しみを知らない。
*
その日の夕飯の時間を迎える前に、彼は死んだ。
僕は彼の死に顔を見てはいないけど、いつもの笑顔を貼り付けたままだろうと思う。




