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穴の少年と変人

作者: 潮原 汐
掲載日:2011/12/23

 僕は煙草を吸わない。

 でも、絶対に肺は真っ黒だ。

 ここは、そういう町だから。

 このコールタウンの真ん中には、大きな穴が開いている。

 ここでは日々、坑夫によって石炭が掘られている。

 掘った石炭で機械を動かし、さらに沢山の石炭を掘る。

 そうしてできた余りを他の町に売り、得た金で機械を改良してもっと石炭を掘る。

 この町はそれを繰り返す。

 ずっと昔からそればかりを続けて、これからもずっと続いていく。

 来る日も来る日も、穴を掘り続ける。

 機械が上げる煙で空は見えず、穴の中の空気はじゃりじゃりとしている。

 汚れた空気に加えて、働きづめだった僕は、無意識のうちに足を止めていた。

 それにめざとく気づいた見張り番がムチを振るう。

「こら、さぼるな!」

 布が裂けるような音を立てて、ムチが僕の背を叩く。

 痛みで我に返った僕は、それ以上の罰を避けるため、慌てて石炭を積んだ台車を押して歩き出した。

 叩かれた場所が熱を発していても、顔に出すのは我慢する。

 そうしなければ、見張り番の嗜虐心をあおって、無意味な折檻を受けることになるからだ。

 歯を食いしばって穴の上に続くエレベータまで行き、ゴンドラの中に掘った土砂を流す。

 ちょうど僕のでゴンドラはいっぱいになったので、ゴンドラと一緒に上からぶら下がっているスイッチを押した。

 ブザーが鳴り、ゴンドラが上昇していく。

 僕はそれを見上げながら、急ぎ足でそこから離れた。

 しばらくすると、さっきまで僕がいた場所に、拳骨よりも大きな石が落ちてきた。

 ゴンドラからこぼれたものだ。

 僕はほっと息を吐き、再び機械がうなりを上げて穴を掘る場所に戻る。

 そうして台車に土砂を積み、またゴンドラに下ろす。

 何度も何度も、それだけを繰り返す。

 ここは、そういう町だから。


   *


 日が傾くと、穴の底には光が届かない。

 それからは機械のライトを頼りに掘り進める。

 機械から離れればそこは暗闇の世界。

 それでも僕は体が覚えている道を通って土砂を運ぶ。

 やがて、穴の中にサイレンが響いた。

 それを合図に機械が轟音を吐き出すのをやめ、穴の中の人々はゴンドラの周りに集まる。

 昼とは違う見張り番が、ムチを持った手を後ろで組み、がらがらにしわがれた声を出す。

「今日の作業はここまでにしてやる。遅れた分は明日中に取り戻せ。それができなければ、明日の飯は無いぞ、わかったな」

 見張り番はそれだけ言うと、ゴンドラに乗って登っていった。

 それを見届けると、その場の空気が少しだけ緩んだ。

 そんな中、ゴンドラが戻ってくる。

 一人の男が近づき、ゴンドラに積まれていた箱を開ける。

 中に入っているのは、パンとスープだ。

 人々は男の前に並ぶ。

 僕も並んで今日の配給を受け取り、適当な場所に腰を下ろしてスープに口を付けた。

 水分が、喉に溜まった煤や粉塵を流していく。

 次いでパンにかぶりついた。

 パンは固い。

 両手で引っ張って、ようやく食いちぎることができる。

 パンの断面は、僕の口の周りに付いていた煤やらで真っ黒になっている。

 それを無心で見ながらスープを口に含む。

 パンを十分にふやかしてから飲み込んだ。

 もう一口とパンに噛みついたとき、隣に誰かが座った。

「今日はお互い、一発で済んだな」

 暗くて表情は見えないが、僕には彼が笑っているとわかった。

 しししと、空気が歯を擦る音が聞こえたから。

 彼は穴の中で、変人と呼ばれていた。

 僕たちは皆、この穴の外には出ることができない。

 奴隷として穴の中に住まわされ、朝から晩まで穴を掘らされる。

 誰もが疲れ切った顔で、絶望のうちに過ごす。

 しかし、彼だけは違った。

 穴の中にあってなお、彼は笑みを絶やさない。

「毎日毎日、あんなの何発も食らってたら死んじまうよ」

 そう言ってからからと笑う。

 僕はといえば、

「ムチ打ちなんて無くたって、僕らはいつか死ぬよ」

 掠れた声でそう呟く。

 彼は僕の言葉に、肩を揺すった。

「それもそうだな」

 わかっているなら、どうして笑っていられるのだろう。

 彼と話す度に、僕はそう思ってしまう。

 でも、彼に聞いてみたことはない。

 聞いたところで、どうせ理解できないと思うから。

 僕はもう、自分が最後に笑ったのがいつだったか覚えていない。

 穴に入ってから何年経ったか。

 穴の中には暦も時計もない。

 初めのうちは、太陽が昇った回数を数えていたけれど、書き留めておく物がないから、ある日いくつまで数えたか忘れて以来、ずっと数えるのをやめていた。

 とにかく、長い時間が経った。

 もう自分は、笑い方も覚えていないだろう。

 試したことは無いが、なんとなくそう思う。

 たとえ覚えていたって、顔にこびりついた煤が固まっていて、頬を持ち上げられない。

 僕は残りのパンとスープを口に詰め込み、彼から離れた。

 ゴンドラの箱の中にスープの椀を戻し、地べたに横になった。

 奴隷たちには、寝るための布きれ一枚だって与えられない。

 少しでも熱を逃がさないよう、体を小さく丸めて目を閉じた。

 眠りに落ちる直前、いつも考える。

 僕は明日、目を開けられるだろうか。


   *


 体の痛みに、僕は目を覚ました。

 起きられたことに安堵し、同時にまた一日、苦しみが続くことに悲嘆する。

 いつまでも寝転んでいては、見張り番がムチを持ってやってきてしまう。

 僕はいそいそと立ち上がり、体を伸ばした。

 丸めていた腰の骨が鳴る。

 口を手で覆って欠伸をする。

 目尻に浮いた涙を拭っていると、かすかにうめき声が聞こえた。

 声のした方に目を向けると、誰かが胸を押さえてうずくまっていた。

 もう駄目だ。

 彼のように胸を押さえて、脂汗を浮かべたら最後。

 長くても三日で死んでしまう。

 それでも、見張り番はこうなった人間にだって容赦しない。

 動けなくなっても、死ぬまでムチを打ち続けるのだ。

 僕がせめて少しでも早く逝けるように祈って離れようとすると、彼は荒い息を吐きながら顔を上げた。

「あ」

 思わず声が漏れた。

 苦しげに顔を歪めているのは、穴の中で唯一笑顔を浮かべる彼だった。

 僕が呆然と眺めていると、彼はゆっくりと立ち上がる。

 そして、笑ったのだ。

 自分の目が信じられず、僕は乱暴に目を擦った。

 見間違いではない。

 彼は顔は確かに、いつものように笑みで満ちていた。

「なんで……」

 僕は大股で彼の前に出た。

「なんで笑えるんだ!」

 突然現れた僕に彼は驚いたようだったが、すぐに歯の隙間から空気を漏らした。

「なんでって?」

「そう、君はもうすぐ死ぬんだよ! それなのにどうして、君は……」

「ああ、やっぱり俺は死ぬのか」

「自分のことじゃないか! 怖くないのかよ!」

「思ってたよりは、平気だな」

 彼は体を折って咳をする。それが治まってからは膝に手をつき、地面に向かって話した。

「怖いっていうより、『満足』、かな」

「満足?」

「俺、ここに入れられる前は、檻の中にいたんだ。サーカスの」

 僕は檻という言葉に息を呑んだ。

「像や熊みたく、檻の中に入れられて、首輪と手かせを付けられた。見世物だったんだよ。生まれてから一度も外に出たことがない人間って」

「檻から出たことがないって、本当に?」

「少なくとも、ものごころ付いた頃にはとっくに檻の中だった」

 彼は、浅い呼吸を何度も繰り返して、顔を上げた。

 それは、僕が見た彼の笑顔の中でも、一番幸福そうな笑顔だった。

「ある日サーカスが潰れて、俺はここに来た。檻の中が世界の全てだった俺にとって、ここの広さは驚きだった。めいいっぱい体を動かしても、檻に体をぶつけなくて済む。それは幸せだ。俺は自由を手に入れた。だから、満足」

 僕はどうして彼がこんな穴の中で笑っていられるのか理解した。

 彼には、ここでの日々が単純に絶望ではなかったのだ。

 それ以上の深い絶望を知っていたから。

 やっぱり、彼の笑みの理由を理解しても、僕には笑えなかった。

 僕は、ここ以上の苦しみを知らない。


   *


 その日の夕飯の時間を迎える前に、彼は死んだ。

 僕は彼の死に顔を見てはいないけど、いつもの笑顔を貼り付けたままだろうと思う。

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