第六話:道化師
ベイツの背が広場の人波に紛れて見えなくなったあとも、ブランシュはそのまま人混みを見つめて、ぼんやりと考えていた。
――身の安全を第一に考えろ。
ベイツが言った、あの言葉が身に染みる。もし、ベイツがブランシュと同じ結論に達したのなら、今頃、飛ぶように家に帰って、この領都を離れる準備をするだろう。
ブランシュはどうするべきだろうか?
領都から逃げ出す準備をする?
とりあえず、机の上の小銀貨を財布代わりの小袋に入れ、それからルーンカードをまとめてポケットにしまう。
今日はもう占い稼業はやめておこう。心がざわつくときは、上手く占えない。
そう決めると、動きは早かった。机を畳み、椅子を重ね、日除け布の陰に寄せる。
「おや、もう帰るのかい?」
野菜を並べ直していたマルゴが声をかけてくれる。
「うん、ちょっとね。また明日!」
「気をつけて帰んなよ」
ブランシュは軽く手を振って歩き出してはみたものの、本当に明日もこの場所にこれるのだろうかと思ってしまう。
広場を抜け、賑やかな道を歩きながら、なんとなく周囲を見る。
いつもと同じ時間。
いつもと同じざわめき。
そう思っていたのは、勘違いだった。
よく見ると人の流れが、ところどころで途切れている。
いつもは忙しそうな店主が、暇そうに腕を組んで立っている。
繁盛していた屋台が店を開けていない。
さっきまでは気づかなかった。
ただの偶然かもしれない。
でもやっぱり、いつもと違う。なんだか活気がない。
とりあえず、急いで帰ろう。そう思い、ブランシュが足を速めたときだ。
領都の真ん中に建つ中央塔から、時を告げる鐘が鳴った。
朝と昼の間になる鐘で、この鐘の音を聞くと、皆、いったん仕事をやめ、昼前の休憩をとるのだ。
毎日聞く、いつもの鐘の音だ。
だが、その鐘の音の余韻がまだ響いているとき、ブランシュの鼻に甘い花のような匂いがした。
妙に甘く、花のような匂いだが爽やかさはない。蜜を焦がすほどに煮詰めたような、まとわりつくような甘い匂いだ。
ずっと嗅いでいると、体が勝手に緩んでしまうような、眠気を誘う甘い匂い。
「なに、この匂い……」
思わず立ち止まったブランシュの肩に、ぬるりと男の腕が回された。
「よォ」
耳元で、ふざけた男の声がした。
「なッ!びっくりさせないで!」
突然、肩に手を回されたので、ブランシュは本気で驚いてしまった。先程まで、周囲に人は誰もいなかったはずだ。
肩に回された腕を振りほどいて、突き放す。
「突然に現れないでくれる?」
ブランシュに突き放されたのに、楽しげにクククと小さく笑っているのは、道化師の格好をした男だった。
派手な赤と青、そして黄色で彩られた伝統的な道化師の服に、大きな王冠を模した帽子をかぶっている。
かなり背が高く、痩せているせいで、道化師の服がぶかぶかだ。顔には涙の模様が描かれた仮面をかぶっている。
道化師はまだ笑いが止まらないらしく、わざとらしくお腹を叩く様子までみせ、見ているブランシュを苛立たせた。
「いやー、悪い悪い。そんなに驚くとは思わなかった。でもよォ、この甘い匂いに気づくなんて、さすがだな、ブランシュ。よく分かってるじゃねえか」
ブランシュは道化師を、きつい目で睨んだ。
「土地神様!急に近くに出てこないで!私の心臓を止める気!?」
ブランシュに馴れ馴れしく話しかけてきたのは、この土地の土地神だった。
土地神は、ボルド親方を占ったときに鉄鉱石から出てきた、むいちゃんとは違い、ブランシュの力で顕現した存在ではない。
元から、この土地にいる神なのだ。人の目には映らないはずが、ブランシュには見えてしまっているのだ。
ブランシュがこのグラスティ伯爵が治める土地に来てから、ぶらりと姿を見せるようになった。特に用事はないらしく、いつもくだらない噂話をして、おしゃべりを楽しんだ後、突然消える。
きっと、話し相手が欲しかったのだろう、とブランシュは考え、土地神を拒否することはなかった。彼の話は、いつも面白かったし、ブランシュも楽しんでした。
そういうわけで、この土地神の姿はブランシュにしか見えていない。
今のブランシュは街の人からすれば、いきなり道の真ん中で少女がしゃべりだしたように見えるだろう。
土地神は例によって、軽い調子で謝罪をしてきた。
「だから、ごめんって。でもよ、この気持ちの悪い甘ったるい匂いは、俺の匂いじゃないぜ?」
土地神は周囲を見回して警戒してから、声を落として話し始めた。
「ブランシュ。これはな、俺より格上の存在の匂いだ。ヤバい奴なんだよ」
「格上の存在?」
あまりにも意外なことを聞いて、ブランシュは思わず大きな声で聞き返してしまった。
「おいおい、でかい声出すなよ。聞いてるかもしれねぇぜ?そのヤバい奴がよ」
「ご、ごめんなさい」
ブランシュには、この土地神は十分、力のある神様のように感じられる。その土地神が格上と言うのなら、相当な存在だ。
「とりあえず歩こう。こんな場所で立ち止まっていたら、そいつの注意を引きかねない」
土地神はブランシュと並んで歩きながら、さらに声をひそめてくる。
「この甘い匂いはな、なぜか血の匂いと混ざりたがるんだよ」
血の匂いと聞いて、ブランシュの背中に冷たいものが走った。
「血の匂いって?誰かが喧嘩でもするの?」
周囲を見る限り、街は落ち着いた状態だ。不満をもった人がたくさんいるという話も聞いたことがない。
ブランシュがこの領都に来てからというもの、街の人が喧嘩しているのを見たことがないくらいだ。
夜の街で、酒を飲みすぎた客たちが殴り合うのだろうか。
土地神は肩をすくめた。
「喧嘩なんかじゃ済まないだろうよ。俺の経験からいって、この甘い匂いがしたときは、多くの血が流れるんだ。だからよぉ、早く逃げたほうがいいぜ?」
冗談のように怖いことを言いながら、土地神は指先でブランシュの頬をつついてきた。
「お前はさ、俺のきったねえ祠、よく掃除してくれてるだろ。水も替えて、花まで供えてさ」
「小さな祠?あ、あれ、土地神様の祠だったの?知らなかった……」
街の外にある小さな祠――最初見たときは、背の高い草に隠れて見えなかった。ブランシュは、薬になる草を集めているときに、たまたま見つけたのだ。
あまりに汚れていたので、周辺の草刈りをして、掃除したのだ。街の住人からは忘れ去られているようだったので、それからも時々、訪れて掃除をしていた。
でも土地神様の祠だとは知らなかった。
「あんな古ぼけた祠が俺のだなんて、恥ずかしくて言えねえよ。でもまあ、感謝してる」
神様から感謝されるなんて、なんだかくすぐったい。
「だからよぉ、こんな話をするのは、その返礼ってわけだ」
ブランシュは通りを歩きながら、街の中を観察してみる。甘い匂いは街の中のいたるところに漂っている。でも、誰もこの匂いには気づいていないようだ。
歩いている最中も、その匂いは、どんどん強くなってきているように感じられる。
ブランシュは横を歩く土地神を見上げた。
「土地神様も逃げるの?」
土地神は、ふいっと顔をそむける。
「おいおい、俺が逃げるわけないだろう?ここは俺の土地なんだ」
土地神の声が、いつになく真剣味を帯びている。
土地神は人ではない。だから怪我もしないし、血も流さないはずだ。きっと、この匂いがする場所に残っても、大丈夫なのだろう。
「土地神様の言う通り、この街を出ようかな……」
そう、ブランシュがいうと、少しおどけた様子で土地神はうなずいた。
「いいぞいいぞ!そうしよう。次の角を右に行けば城門に行けるぞ?」
ブランシュは、自分の手を引っ張って先に歩き出そうとする土地神様を止めた。
「待って!いますぐには無理。一度、領主館に帰らないと」
土地神が舌打ちする。
「家に帰るだぁ?物なんか置いてけよ」
土地神の言うように次の角を右に曲がらず、まっすぐ歩いていくブランシュの後を、ぶつぶつ文句を言いながらも、土地神はついてきた。
「匂い、強くなってきてるぞ。結構やばいぞ、これ」
「分かってますって」
ブランシュは走り始めた。
「お前みたいなチビが走ったって、たいして変わんねぇよ」
そういいながらも、土地神も一緒についてきた。
人の多い通りを抜け、石畳の道を左に曲がる。
通りに面した塀が高くなり、庶民の住む地域を抜けた。
やがて大きな屋敷が見えてきた。領主様の住むお屋敷、領主館だ。
この地域を治めるのは、エドモン・グラスティ伯爵だ。グラスティ家は古い家柄で、伯爵家の中でも格が高い。
その屋敷の高い門扉の左右には、兵士が二人、槍を持って警備に立っている。
ブランシュは走るのをやめ、普通に歩いて警備の兵に軽く会釈をし、そのまま屋敷の裏手に回った。
裏手には、領主館の裏門がある。正門に比べれば小さいけれど、そこにも兵士が一人、背筋を伸ばして立っている。
ブランシュは警備兵の前で足を止め、軽く頭を下げた。
「ただいま戻りました」
兵士が軽くうなずき、門扉を開けてくれる。ブランシュは領主館の中へと入っていった。
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