第十話:迫る軍勢、閉ざされる門
領主館を飛び出すと、ブランシュはリュカの手を強く引き、そのまま城門の方向へ向かって走り出した。
突然の出来事に戸惑いながらも、リュカは必死についてくる。
そのすぐ後ろを、土地神も静かに追ってきていた。いつもふざけた態度の土地神にしては神妙だ。
今朝、領主館へと帰るブランシュが歩いていた領都グラスティの街は、そのときとはまるで別の場所のように変わっていた。
通りにあふれる人の数が、明らかに異常なのだ。
人が多い。とにかく、人が多すぎる。
街路にも広場にも、人が押し合うようにひしめき合っている。
普段ならゆったりと歩ける石畳の通りは、人の波で埋め尽くされ、あちこちから流れ出してきた人々が、同じ方向へと押し寄せていた。
いや、進んでいるというより、後ろから押されながら流されていると言った方が正しい。
「ねえ、なんか……変じゃない?なんでこんなに人がいるの?」
ブランシュが周囲を見回しながら言うと、土地神がスッとその隣へ並んできた。
「皆、城門に向かってるみたいだな」
その言葉どおり、通りを行き交う人々は皆、大きな荷物を抱えていた。
荷物を山のように積んだ荷車を押す商人。
子どもを二人も抱えたまま小走りに進む女。
布袋をいくつも肩に担ぎ、顔をしかめながら歩く青年。
誰もが落ち着かない様子で、何度も後ろを振り返りながら、城門の方向へと急いでいる。
ざわついた声が、通りのあちこちから聞こえてきた。
「兵士が領主様の館に走っていったらしい」
「もう城門が閉まるって話だ」
「国王様の軍隊が、そこまで来てる……本当かね?」
その断片的な会話を聞いたとき、ブランシュは思わず足を止めそうになった。
今まで、占いの客の相談話や土地神の話から、この地が大変なことになるかもしれないとは思っていた。
だが、まさか国王の軍隊が迫っているとは想像していなかった。これは、思っていたよりもはるかに危険な状況だ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
リュカが心配そうな顔で見上げてくる。
その小さな手は、少し震えていた。
「大丈夫よ、急ぎましょう」
ブランシュは自分に言い聞かせるようにそう言い、再び人の流れに沿って走り出した。
しかし、人が多すぎる。押し合う人の流れに阻まれ、思うように前へ進めない。
しばらく進むと、屋台が並ぶ広場へと出た。
朝ここを通ったときには、焼き菓子の香りや串焼きを売る声で賑わっていた場所だ。だが今、その光景は跡形もなく消えていた。
どの店もすでに閉まっている。それどころか屋台そのものが持ち運ばれ、広場には何も残っていない。
皆、店ごと街の外へ持ち出して、逃げようとしているのだろう。
人混みの向こうに、見慣れた店先が見えた。占いで軒先を貸してもらっている野菜店だ。店の前では、大柄な女が慌ただしく動き回っている。
野菜屋のマルゴだ。
「マルゴさん!」
ブランシュが叫ぶと、マルゴが驚いた顔で振り返った。
「ブランシュ!あんた、無事だったんだね!」
いつもなら豪快に笑っている顔が、今日は珍しく険しい表情をしている。
ブランシュはリュカが転ばないように手を引きながら、人の間を縫うようにして急いでマルゴのそばへ駆け寄った。
「ねえ、マルゴさん。ここで何が起きてるの?」
息を整えながら尋ねると、マルゴは周囲をちらりと見回し、声を少し落とした。
「さっき領主館に兵士が駆け込んだのを見た奴がいるんだよ」
その兵士なら、ブランシュも知っている。
その知らせのせいで領主館は非常事態となり、すべての門が閉じられることになったのだ。
だからこそ、領主館を抜け出すのに、ブランシュとリュカはあれほど苦労した。
「それでさ、その兵士の荷物持ちをしてた男がいるんだよ」
マルゴは顎で通りの向こうを指した。飲み屋が並ぶあたりだ。
「そいつが酒場に飛び込んで、国王様が攻めてくるって叫んで、大騒ぎになったんだよ」
「国王様の軍が……本当に?」
ブランシュの問いに、マルゴは真剣な顔でうなずいた。
「ああ。他の商人たちも街道沿いで国王様の軍隊を見たってさ。もうすぐそこまで来てるらしい」
噂は一瞬で街中に広がったに違いない。そして今、その噂がこの町全体を飲み込んでいる。
誰もが、少しでも早く逃げようと城門へ向かっているのだ。
リュカが小首を傾げながら、不思議そうに聞いてきた。
「どうしてみんな、逃げてるの?」
その言葉を聞くと、マルゴは更に表情を引き締め、城門の方向へと視線を向けた。
周囲を行き交う人々のざわめきが、重たい空気のように広場を包んでいる。
「それはね、お嬢ちゃん。領主様が、この街を囲む城壁の門を閉めてしまうからだよ」
落ち着いた声だったが、その言葉にははっきりとした危機感がにじんでいた。
お嬢ちゃんと呼ばれたリュカは、少し恥ずかしかったのだろう。侍女見習いのドレス姿のまま、小さくもじもじと身を揺らしている。
だが、それでも聞いておきたいことがあったらしく、すぐに顔を上げて続けてマルゴに尋ねた。
「なんで門を閉めちゃうの?」
「戦になるからさ。城門を閉めないと攻め込まれるだろう?」
マルゴがあまりにも当たり前のように「戦になる」と言ったので、ブランシュは思わず息を呑んだ。
もう、皆、戦が起こることを当然のこととして受け止めているのか。
街の空気は、いつの間にかそんなところまで変わってしまっていた。
「じゃあ、外に出られなくなる?」
リュカが少し不安そうな声で聞く。
「ああ、誰も外には出られなくなるよ」
マルゴは当然のことのように言った。
「そうなったら籠城だ。この街に閉じこもるってことさ」
その言葉を口にすると、マルゴは周囲の様子をもう一度見回し、少し声を低くして続けた。
「戦が長引けば、食料がなくなる。この街で飢え死になんかしたくないだろう?だから、みんな逃げてるのさ」
マルゴが口にしたその言葉は、ぼんやりとしていた不安を、はっきりとした危機としてブランシュに突きつけてきた。
自分だけではない。リュカも同じ危機の中にいるのだ。
マルゴはリュカに話しかけてから、今度はゆっくりとブランシュを見た。
「ささ、あんたも早く行きな」
そして太い指で城門の方角を指す。
「あんたたちは若い。走っていけば、門が閉まる前に出られるかもしれないよ」
ブランシュは小さくうなずいた。
「ありがとう、マルゴさん」
「おばさんは、逃げないの?」
リュカが心配そうに聞く。
自分のことを気遣ってくれるその言葉に、マルゴは少しだけ表情を和らげると、リュカの頭を大きな手で優しくなでた。
「なに、あたしだってサッサと逃げるつもりだよ。お嬢ちゃんは優しいね」
そう言われて、リュカは少し照れたように頬を赤らめた。侍女見習いのドレス姿なのだから、お嬢ちゃんと呼ばれてしまうのも無理はない。
その様子を見ていたブランシュの背後で、土地神が小さく首を横に振っている。
「この野菜売りは逃げる気なんてないのさ。旦那の足が悪いから、一緒に留まるつもりなんだ」
土地神は、誰にも聞こえない声でそう言った。
やっぱりそうか、とブランシュの胸が少し重くなる。だが、事情を知っていることを知られてはいけない。
ブランシュは気持ちを押し隠し、できるだけ明るい声でマルゴに最後の挨拶をした。
「じゃあ、マルゴさん。どうかご無事で」
マルゴは力強くうなずいた。
その姿を背にして、ブランシュは再び城門の方向へと走り出す。リュカの手をしっかりと握り、人の流れの中へ飛び込んでいった。
さっきより、通りの人は少し減ったように見える。おそらく多くの人が、すでに城門前の広場まで移動してしまったのだろう。
「リュカ、ぜったい門から出るからね!」
ブランシュが強い声で言う。
その言葉に、リュカは「うん」と声に出して返事をし、ブランシュの手をぎゅっと強く握り返した。
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