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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第9話】



 アイゼンブルクの商人、ドルフが借り上げている部屋は、ダスクマーレの安宿の中では最も広い一室だった。



 しかし、壁の石組みから染み出す黒カビの臭いは、彼が持ち込んだ南方産の甘いこうの煙をもってしても誤魔化しきれていない。


部屋の隅には豪奢ごうしゃな装飾が施された商品箱が積み上げられ、泥濘でいねいの街にはひどく不釣り合いな異物感を放っていた。



 豪奢な上着を着込んだ小太りのドルフは、指にはめた幾つもの指輪を擦り合わせながら、目の前の若者を胡乱うろんな目で見上げていた。



「道案内と、そこの傭兵の護衛二人分。それで銀貨十五枚だと?」



 ドルフの甲高い声が、湿った空気を震わせる。



 法外な値ふっかけられた商人の、芝居がかった怒り。


しかしその額には脂汗が浮き、視線はヴェインの背後に立つ巨漢――分厚いボロ布で巻かれた大剣を背負い、退屈そうに壁に寄りかかるクロードの姿を、幾度も怯えたようにチラ見していた。



「冗談ではない。私の商会が抱える専属の護衛でさえ、それほどの額は取らんぞ」



 ドルフは交渉の主導権を握ろうと、わざとらしく鼻を鳴らした。



 ヴェインは表情一つ変えなかった。


部屋の入り口付近で、エラが荷物持ちのように静かに控えている。彼女の鳶色とびいろの瞳は、足元の床板の木目を数えるように伏せられたままだ。



 ヴェインは低い重心のまま一歩だけ前に出た。



 ただそれだけの動作で、ドルフの肩がびくりと跳ねる。



「専属の護衛がいながら、あなたが血眼になって追加の戦力を探している理由を話しましょうか」



 淡々とした、温度のない声。



 ドルフの指輪を擦り合わせる手が、ぴたりと止まった。



「三日前。東の霧峠きりとうげで、同業者の荷馬車が一台、跡形もなく略奪されました」



 酒場の暗がりで拾い集めた情報を、ヴェインは極めて正確な刃として突きつける。


ドルフの喉仏が大きく上下に動くのが見えた。



「襲撃した盗賊は四人組。そのうちの一人は、南の戦場から流れてきた元傭兵です。ただの山賊ではありません。統率が取れ、殺しに手慣れた連中だ」



 ヴェインの言葉は、そこで意図的に途切れた。



 冷え切った沈黙が部屋に落ちる。


ドルフの呼吸が浅く、早くなっていた。


見えない恐怖の輪郭を言語化されたことで、商人の想像力が勝手に最悪の事態を算段し始める。



 その恐怖が頂点に達した絶妙な数秒の『間』の後、ヴェインはゆっくりと振り返り、背後のクロードを見上げた。



「……クロード。あなたなら、その元傭兵の素性に心当たりがありますね」



 突然話を振られたクロードの太い眉が、微かにピクリと動いた。



 ヴェインの薄灰色の瞳が、クロードの双眸そうぼうと交差する。


哀願でも、助けを求める目でもない。


ただ「この盤面で自分の駒として機能しろ」という、支配者特有の冷徹な命令がそこにあった。



 一拍。



 クロードの口元が、本当にごく僅か、三日月のように歪んだ。



「ああ。知ってる」



 しゃがれた、しかし底知れない凄みを持った声が部屋に響き渡った。



 ただのハッタリだ。


ダスクマーレに来たばかりのクロードが、顔も知らない盗賊の素性など知るはずがない。


しかし、死地を潜り抜けてきた本物の獣が放つその一言は、ドルフの僅かな疑念を完全に叩き潰すだけの質量を持っていた。



 ドルフは弾かれたように椅子から立ち上がった。



「わ、わかった! 銀貨十五枚、それで手を打とう!」



 震える手で革袋が乱暴に卓上に放り出される。


硬貨が鈍い音を立ててぶつかり合った。



 ――十分後。



 ダスクマーレの霧に覆われた通りを、三人は歩いていた。



 先頭を歩くエラが、麻袋に入れられた前金の硬貨の重さを確かめるように、時折肩を揺らしている。



 その後ろで、クロードが大きなため息をつき、隣を歩くヴェインを見下ろした。



「なぜ、俺が知っていると言った」



 詰問ではない。ただの興味だ。


下手をすればあの場で嘘が露呈し、交渉ごと破綻はたんしていたかもしれない綱渡り。



 ヴェインは立ち止まることなく、前を向いたまま答える。



「あなたが、知っていそうな顔をしていたからです」


「……何だと?」



 クロードが足を止める。



 ヴェインも立ち止まり、静かに振り返った。



「あなたは南の戦場から流れてきた。だが、ただの敗残兵ではない。戦場の空気を読み、相手の力量を測ることにけている。私が話を振れば、あなたは必ず意図を察し、私のハッタリに『合わせてくれる』という顔をしていました」



 それはヴェインが他者の本質を見抜き、その行動を計算式に組み込んだ、最初の瞬間だった。



 クロードはしばらくの間、目の前の若者の顔をじっと見つめていた。


やがて、その喉の奥から、酒場で聞いた時よりもずっと深い、本物の笑い声が漏れ出す。



「使えない坊ちゃんかと思ったが……少しは見所があるらしいな」



 南の戦場から死に場所を探して彷徨さまよっていた獣が、初めて自らの意志で、新しい主人を認めた瞬間だった。



 霧の奥で、カラスが短くいた。



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