【第8話】
酒場の最も奥深く。
煤けた油ランプの光さえ届かない暗がりに、その男は座っていた。
喧騒に満ちた店内にあって、彼の座る円卓の周囲だけが不自然なほどぽっかりと空いている。
誰も近づこうとしないのだ。
壁に立てかけられた、分厚いボロ布でぐるぐる巻きにされた身の丈ほどもある大剣。
そして何より、男自身から発散される、血と硝煙と死の酷薄な匂いが、周囲のゴロツキたちに本能的な警鐘を鳴らさせている。
南の戦場から流れ着いた元傭兵、クロード=マーチ。
ヴェインは躊躇うことなくその空間に踏み込み、男の正面にある丸椅子を引いた。
ギィ、と古びた木が軋む。
ヴェインが腰を下ろしても、クロードは木製のジョッキを見つめたまま、顔を上げようとしなかった。
伸び放題の無精髭に覆われた横顔は、深い徒労感に沈んでいる。
「お前に仕事を頼みたい」
前置きは省いた。
ヴェインの低く平坦な声が、テーブルの上に落ちる。
クロードの視線はジョッキの中の濁ったエール酒に固定されたままだ。
ただ、太い首の筋肉だけが僅かに動き、退屈しきったような嗄れ声が返ってきた。
「金はあるのか」
このダスクマーレにおいて、命のやり取りに等しい問いだ。
虚勢を張り、見え透いた嘘で前金を誤魔化そうとする輩を、クロードはこれまでに何十人も斬り捨ててきた。
ヴェインは、テーブルの上に両手を置いた。
「今はない。しかし、必ず払う」
その言葉には、一切の淀みがなかった。
あまりにも堂々とした無一文の宣言に、クロードの太い眉が微かにピクリと動く。
ジョッキを傾けようとしていた手が止まり、ゆっくりと顔が上げられた。
前髪の隙間から覗く、飢えた獣のような鋭い双眸が、初めて目の前の若者を射抜く。
クロードの視線が、まずテーブルの上に置かれたヴェインの手に落ちた。
泥と血糊で汚れてはいるが、日雇いの肉体労働や長年の野営で鍛え上げられた分厚い手ではない。
骨組みの細い、元は上等な手袋に守られていたはずの貴族の手だ。
だが、その右手の掌の中央には、幼い頃に真剣で叩き切られた深い刃の傷跡が白く走っている。
さらに指先は、石の壁を素手でよじ登った生々しい裂傷と、剥がれかけた爪の血豆で無残に潰れていた。
温室育ちの坊ちゃんのそれでは決してない、壮絶な『代償』を支払ってきた人間の手。
クロードは視線を上げ、ヴェインの顔を見た。
薄灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据え返している。
地位も金もすべてを失い、泥の底に叩き落とされた若者のはずだ。
しかしその眼差しには、絶望の濁りも、他者に縋る哀願の色も一切ない。
氷のように冷たく、刃のように鋭く、底の知れない暗い炎を宿した、支配者の目。
(……ただの没落貴族じゃない。こいつの目は、別の生き物のそれだ)
クロードはテーブルに肘をつき、わずかに身を乗り出した。
「何をしたい」
問いの性質が変わった。単なる傭兵と雇い主の会話から、相手の力量を測る戦士のそれに。
ヴェインは瞬き一つせず、淡々と計画の全容を口にする。
「アイゼンブルクの商人の護衛依頼を取る。盗賊に怯えている彼らから相場以上の報酬を引き出し、当面の資金を作る。そこから先は、追々話す」
「追々、か」
クロードの喉の奥から、乾いた笑い声が漏れた。
何の後ろ盾もない無一文の若造が、たった今、酒場の空気を読んで組み上げただけの即席の盤面。
しかし、不思議と悪い気はしなかった。
目的を見失い、ただ酒場の隅で腐りかけていた己の暴力に、明確な『方向』と『価値』が与えられようとしている。
クロードはジョッキに残っていたぬるい酒を一気に飲み干すと、音を立ててテーブルに叩きつけた。
巨躯が、ゆっくりと立ち上がる。
天井の梁に頭が届きそうなほどの圧倒的な質量が、ヴェインを見下ろした。
「とりあえず、話だけは聞いてやる」
クロードが壁に立てかけてあった大剣を無造作に掴み上げる。
灰の中から這い上がろうとする男と、南の戦場で死に場所を失った男。
彼らの運命の歯車が、この泥濘の街の片隅で、静かに噛み合った瞬間だった。




