【第7話】
昼間から無数の欲望と絶望が煮詰まるダスクマーレの酒場は、入った瞬間にむせ返るような熱気に満ちていた。
床の石畳には泥と吐瀉物と安酒が染み込み、歩くたびに粘り気のある音を立てる。
長年の使用で黒光りするオーク材のカウンターの向こうで、太い腕に刺青を入れた主人が、汚れた布で木製のジョッキを乱暴に拭き上げていた。
ヴェインはそのカウンターの前に立ち、まっすぐに主人を見据えていた。
「働き口を探している」
主人はジョッキを拭く手を止めず、値踏みするようにヴェインを頭の先からつま先まで舐め回した。
泥にまみれてはいるが、布地は悪くない外套。
そして何より、この吹き溜まりの街には似つかわしくない、背筋の伸びた立ち姿。主人の唇の端が、微かに嘲笑の形に歪む。
「腕は?」
「剣と、交渉だ」
ヴェインの答えは短く、揺るぎなかった。
一拍の沈黙。
直後、主人の分厚い胸板が震え、押し殺したような低い笑い声が漏れ出した。
それはやがて、カウンターの周囲にいた常連客たちにも伝染し、下品な嘲笑の波となってヴェインの鼓膜を打つ。
主人は布をカウンターに叩きつけた。
「交渉だと? お貴族様のお使いでも頼むってのか。いいか、兄ちゃん。この街にあるのは、重い荷物を運ぶか、誰かの背中を刺すか、他人の不幸を売る仕事だけだ。綺麗な言葉で飯が食えると思ってるなら、今すぐ東の故郷へ帰りな」
ヴェインは無言のまま、主人の目を見つめ返した。
怒りはない。
ただ、己の提示した価値がこの泥濘の街では一切通用しないという冷厳な事実を、計算式の一部として脳内に組み込んでいるだけだ。
その時、ヴェインの脇をすり抜けて、小さな影がカウンターに歩み寄った。
エラだった。
彼女は主人の嘲笑も、周囲の男たちの下卑た視線も一切気に留める様子なく、カウンターの上に積まれていた汚れ放題の木皿を一枚手に取った。
「皿洗いをする」
主人が目を丸くする前で、彼女は麻布の袖を無造作に捲り上げる。
「私と、その後ろの人の一日分の食事。それでどう?」
交渉ではない。
ただの労働と対価の提示だ。
主人は呆気にとられた顔でエラを見下ろし、やがて太い息を吐き出して「勝手にしろ」と顎をしゃくった。
エラはヴェインを振り返ることなく、そのまま厨房の奥へと消えていく。
自分を庇護するはずの貴族の誇りは無力で、名もなき廃村の少女の実用性だけが、この街で生きるための『正解』だった。
その痛烈な皮肉を、ヴェインは静かに飲み込んだ。
夕刻。
酒場がさらに混み合い、酸っぱいエール酒の匂いと煙草の煙が層を成して天井に滞留し始めた頃。
ヴェインは、酒場の最も暗い隅の席に陣取っていた。
目の前には、エラが厨房から運んできた硬い黒パンと、くず肉の煮込みが入った木椀がある。
それを少しずつ胃に流し込みながら、ヴェインの意識は周囲の喧騒の海へと潜っていた。
眼を閉じ、呼吸を浅く保つ。
怒声、笑い声、グラスの触れ合う音。
無意味な音の羅列の中から、人間の『欲』と『恐れ』が滲み出ている会話だけを、砂金のように濾し取っていく。
『――霧峠で、また荷馬車がやられたらしいぜ』
右手のテーブル。顔に傷のある商人風の男の声。
霧峠。
東の山脈を越え、グレイヴァルへと通じる重要な交易路だ。
そこが荒らされているということは、東の彼方から迫りくる何者かの前触れとして、この一帯の治安が静かに崩れ始めている証拠だった。
『――アイゼンブルクから来た成金商人が、血眼で護衛を探してるってよ。どうせ足元見られてぼったくられるのがオチだ』
左手のカウンター。
酔っ払った用心棒たちの愚痴。
アイゼンブルクの商人。
金の匂い。
そして、安全を買うためなら相場以上の対価を払う焦りがある。
『――南の戦場から流れてきた傭兵崩れが、安宿の裏で管を巻いてた。身の丈ほどもある大剣を抱えて、目が完全に据わってやがった。関わらねぇ方がいい』
正面のテーブル。
小間物売りの怯えた声。
南からの敗残兵。
腕は立つが、居場所と目的を失い、持て余した暴力のやり場を探している飢えた獣。
(盗賊に怯える金持ちの商人。目的を持たない飢えた剣士。そして、治安の崩壊した山道)
ヴェインの脳内で、散らばっていた三つの点に、目にも止まらぬ速さで線が引かれた。
頭蓋の奥底で、重く錆びついていた巨大な歯車が、軋みを上げて噛み合う音がした。
かつては領地の帳簿や貴族同士の力関係を計算していたその機能が、今は生き残るための『謀略』という形をとって再起動していく。
血流が指先まで巡り、薄灰色の瞳に、氷のような冷たい光が灯る。
(……使える)
ヴェインは手にしていた木椀を静かにテーブルへ置いた。
すべてを失った男が、この泥の街で最初に手に入れた三枚の目に見えない銅貨。
それを元手に、どう盤面を動かすか。
長身が、暗がりの中からゆっくりと立ち上がった。
喧騒の中で、その変化に気づく者は誰もいない。
ただ一人、厨房の洗い場で手を止めたエラだけが、壁の向こう側の気配の変化を感じ取ったように、ふと顔を上げただけだった。




