【第61話】
南の軍事国家テネブラシアの黒鋼の城門を背にしてから、すでに丸二日が経過していた。
天を突くような黒々とした針葉樹の森を抜け、視界が開けた北の山道へと差し掛かっても、三頭の馬が進む道のりには、行きよりもさらに重く、息苦しいほどの沈黙が張り付いていた。
先頭を進むクロードは、背中の大剣を揺らしながら、ただ無言で手綱を握っている。
彼は余計なことを聞かない。
ヴェインが密室でセレーナと何を話し、どのような過程を経てあの婚約合意書に印璽が押されたのか。
結果が「同盟の成立」である以上、傭兵としての彼にとってそれ以上の情報は必要ないからだ。
だが、問題は最後尾を進むエラだった。
普段であれば、道端の珍しい花を見つけては声を上げ、険しい山道の疲労を和らげるように他愛のない言葉を紡ぐはずの彼女が、テネブラを出発して以来、驚くほど口数が少なくなっていた。
ただ黙々と馬に揺られ、前を向いている。
不機嫌そうに唇を尖らせているわけでも、悲しみに沈んで泣いているわけでもない。
ただ、彼女という存在そのものの『輪郭』が、周囲の世界からふっと切り離されてしまったかのような、奇妙な静けさだった。
太陽が中天を過ぎた頃。
山道の中腹で、岩肌から澄んだ水が湧き出す小さな泉を見つけ、三人は馬を休めることにした。
ヴェインとクロードが水袋を満たし、馬の首筋を冷やしてやっている間。
エラは一人、馬から降りると、泉のほとりの少し離れた苔むした岩の前に膝をついた。
彼女は泥に汚れた両手を胸の前で固く組み、目を閉じて、微かに唇を動かし始めた。
音に出ない、静かな祈り。
国教会が強要するような立派な祭壇も、荘厳な経典もない。
ただ大地と水、そして胸の奥に秘めた『息吹束』の青草だけを拠り所とする、名もなき自然信仰の素朴な儀式。
しかし、その小さな背中が放つ孤絶した空気は、大国の神殿の奥底よりも遥かに深く、侵しがたい神聖さを纏っていた。
「……あの娘、何か変わったな」
少し離れた木陰で馬の腹帯を直していたクロードが、顔を上げずに低く唸るように言った。
ヴェインは水袋の栓を閉めながら、視線だけをクロードに向けた。
「何が」
平坦な声で聞き返すヴェインに、クロードは初めて手を止め、泉のほとりで祈り続けるエラの小さな背中を獰猛な双眸でじっと見つめた。
「さっきからずっと、自分の中に潜っている」
「潜る?」
「ああ。戦場で明日をも知れねぇ絶望的な籠城戦を長く続けてると、たまに、ああいう目をして黙り込む奴が出てくる。周囲の音も、味方の声も耳に入らなくなり、ただ自分の内側の深い場所だけで何かを処理し始めるんだ」
歴戦の傭兵としての、血生臭い経験に裏打ちされた観察眼。
エラは絶望しているのではない。
他者に救いを求めることを諦め、自分の抱え込んだ正体不明の重い感情を、自分一人だけの力で飲み込み、消化しようとしているのだと、クロードは言っているのだ。
ヴェインは薄灰色の瞳を細め、泉のほとりのエラを見た。
泥まみれの外套、細い肩。
祈りの姿勢は、いつもと何も変わらないように見える。
テネブラの広場で「おめでとう」と言った彼女の笑顔の奥にあった、あの正体不明の『異質さ』。
ヴェインの極限まで研ぎ澄まされた論理的思考回路をもってしても、彼女の心の奥底で何が砕け、何が組み上がろうとしているのか、その方程式を解くことはできなかった。
「……そうか」
ヴェインは、答えのない計算式を放棄するように、短く返した。
そのひどく無機質な返答に、クロードは太い眉をひそめ、ヴェインの横顔を鋭く睨みつけた。
「おまえは、気づかなかったのか」
それは、ただの疑問ではない。
大国の思惑をコンマ一秒で計算し、数千の兵の動きを見通す恐るべき王が。
なぜ、最も近くにいて、自らを泥の中から拾い上げてくれたたった一人の少女の『内側の崩壊』にだけは、盲目であることができるのか。
クロードの低い声は、ヴェインの心臓の最も柔らかい場所を突き刺す、冷たい刃のような警告だった。
ヴェインは、答えることができなかった。
気づかなかったわけではない。
だが、彼は「感情」という非論理的な変数を盤面に置くことを、己の生存戦略として極端に排除してきたのだ。
彼女の悲しみや孤独に寄り添うことは、王としての冷徹な判断を鈍らせる致命的なノイズになる。
だから、見えないふりをした。
しかし、その「意図的な見落とし」が、いずれ取り返しのつかない決定的な断絶を生むことに、今の彼はまだ気づいていなかった。
やがて。
泉のほとりで祈りを終えたエラが、ゆっくりと立ち上がり、二人の元へと歩み寄ってきた。
「待たせてごめんね。お水、冷たくて気持ちよかった」
エラは、少しだけ泥のついた膝を払いながら、ふわりと笑った。
「……行こう」
その声は、驚くほどいつも通りだった。
透き通るような、無垢で明るい響き。
だが、ヴェインはその声を聞いた瞬間、胸の奥に微かな、しかし決して抜けない棘が刺さったような錯覚を覚えた。
彼女はもう、ヴェインに「怖くないの?」と問いかけてきた時のように、彼に対して救いや答えを求めてはいなかった。
彼女の笑顔は、ヴェインに向けられたものではなく、残酷な世界を一人で受け入れるための『鎧』へと完全にすり替わっていたのだ。
三人は再び馬に跨り、北を目指して山道を下り始めた。
春の風が木々を揺らす音と、蹄の音だけが続く。
ヴェインは手綱を握る手に微かに力を込めながら、目前に広がる広大な盤面——グレイヴァルの未来へと視線を固定した。
背後からついてくる少女の、二度と交わることのない静寂の重さを、分厚い氷の底に閉じ込めたまま。




