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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第6話】



 西の枯れ野を覆い尽くす濃密な霧が、石造りの門の残骸を抜けた途端、えた生活臭と混じり合って重く淀んだ。



 境界地帯最大の無法街、ダスクマーレ。



 かつては東西を結ぶ交易の要衝であっただろうメインストリートは、馬車のわだちと泥水によって深くえぐられ、黒ずんだ石畳が腐った歯並びのように点在している。


道の両脇には、違法に増築を重ねた歪な木造建築が今にも倒れそうな角度で身を寄せ合い、太陽の光を泥濘でいねいから容赦なく遮っていた。



 昼間であるにもかかわらず、街全体が薄暗い。



 通りに溢れるのは、あらゆる場所から弾き出された者たちの体温と喧騒けんそうだ。


自分の背丈ほどもある木箱を背負い、獣のようにあえぐ荷運びの男たち。


軒先に寄りかかり、焦点の合わない目で往来を見つめる娼婦しょうふたち。


そして、通行人の落とし物や酔客の財布を狙って、泥の中を這い回る痩せこけた子どもたち。



 怒声と、微かな嗚咽おえつと、安酒の饐えた匂いが、一つの巨大な生き物のように呼吸している。



 エラは、すれ違う大男に肩をぶつけられそうになっても、怯むことなく泥濘の中を進んでいった。



 彼女の鳶色とびいろの瞳は、この暴力と貧困の掃き溜めにあっても、荒野の廃村にいた時と同じように平坦なままだ。


悪意に満ちた視線が幾度も彼女の細い体を舐め回したが、その度に背後に立つ長身の男――ヴェインが放つ無機質な冷気に当てられ、舌打ちと共に視線を逸らしていった。


 エラは広場の一角で、得体の知れない臓物の串焼きを売る老婆の屋台に立ち止まった。



「雨風がしのげる場所を探しているの」



 挨拶も前置きもなく、ただ事実だけを口にする。老婆が怪訝けげんな顔で口を開きかけた時、背後から無言で手が伸び、屋台の油まみれの板に小さな銀の飾りボタンが一つ置かれた。



 ヴェインが自身の外套がいとうから引き千切ったものだ。


かつての身分を示す最後の装飾品は、老婆のひび割れた指先によって瞬時に鷲掴わしづかみにされた。



 老婆があごで示した安宿へ向かう道すがら。ヴェインはエラの半歩後ろを歩きながら、油断なく視線を這わせていた。



 彼が見ているのは、目の前を歩く者たちの顔ではない。



 街の『影』だ。



(路地裏でたむろする三人組。手ぶらだが、指の第一関節にタコがある。素手での喧嘩に慣れた用心棒か、みかじめ料の回収役だ)



 視線を僅かに滑らせる。



(酒場の二階。鎧戸の隙間から通りを見下ろしている隻眼の男。あいつの視線は荷馬車ではなく、武器を持った流れ者の数と顔を数えている。この区画の顔役の目と耳だ)



 氷点下にまで冷え切っていたヴェインの脳髄が、微かな熱を帯びて回転し始めていた。



 誰が誰を見ているのか。どこに金が集まり、どこから情報が漏れ出しているのか。


視線の交差と人々の歩く速度から、この街の目に見えない権力構造と暴力のヒエラルキーが、立体的な網目となってヴェインの網膜に浮かび上がってくる。



 他者を駒として見定め、利用価値を値踏みする冷徹な算盤そろばん



 グレイヴァル城の地下牢で一度は完全に砕け散ったはずの『支配者』としての本能が、泥と悪意に満ちたこの底辺の街で、奇妙なほど自然に脈動を取り戻しつつあった。



 案内された安宿の部屋は、屋根裏の物置に毛の抜けた獣皮を敷いただけの粗末な空間だった。



 壁の隙間からは霧が吹き込み、床板は歩くたびに腐朽ふきゅうしたきしみを上げる。


 ヴェインは部屋の最も奥。


入り口の扉と小さな窓の両方を視界に収められる壁の隅に、背中を預けて座り込んだ。


両膝を立て、その上に腕を組んで、雨漏りの染みが広がった低い天井を静かに見上げる。



 エラは部屋の中央には座らず、汚れたガラスのはまった小さな窓に顔を近づけていた。



「すごい人がいるんだね」



 眼下でうごめく人の波を見下ろしながら、エラがぽつりとこぼした。


感嘆の響きはない。


初めて見る大量の人間を、ただ現象として捉えているだけの声だ。



 ヴェインは天井から視線を外し、少女の細い背中を見た。



「ここには何もない人間しか来ない」



 低く、ざらついた声が湿った部屋の空気を震わせた。



 法の庇護ひごも、守るべき家族も、誇りすらも失った者たちが最後に流れ着く泥の底。


それがダスクマーレという街の正体だ。



 エラが窓から顔を離し、ゆっくりと振り返った。



 逆光になって表情の読めない彼女の顔が、部屋の隅に座り込むヴェインへと向けられる。



「あなたもそう?」



 一拍の、重い間が落ちた。



 階下から、酔っ払いが木製のジョッキを床に叩きつける鈍い音が響く。



 ヴェインは、右手のてのひらを開いた。


剣の稽古で父から受けた古い傷跡。


そこには今、一本の剣を握るだけの力すら残されていない。



 しかし、薄灰色の瞳の奥には、確かな熱が、微小な熾火おきびのような光が宿っていた。



 彼は開いた右手をゆっくりと握り込み、短く答える。



「今はそうだ」



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