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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
プロローグ

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【第5話】



 凍てつく泥を慎重に踏みしめる音が、廃屋の入り口で止まった。



 ヴェインは息を殺し、崩れかけた土壁の影で短剣の柄を握り直す。


極限の疲労で視界が明滅する中、ゆっくりと外へ向けて鋭い視線を放った。



 灰色の朝靄あさもやの中に立っていたのは、完全な武装を施した追手ではなかった。



 歳は十六ほどだろうか。


継ぎ接ぎだらけの粗末な麻布の服をまとい、足元は泥にまみれた古い革靴。


肩口で切り揃えられた色素の薄い髪が、冷たい風に揺れている。


彼女の両手には、小さな白い花をつけた枯れ草の束――辺境の民が死者の霊を慰めるために用いる、息吹束いぶきたばが大事そうに抱えられていた。



 少女の澄んだ鳶色とびいろの瞳が、暗がりの中に潜むヴェインを真っ直ぐに射抜く。



 怯えも、警戒も、そこには一切存在しない。


ただ足元の石ころを見るような、あるいは天候の変化を観察するような、極めて静かで平坦な眼差しだった。



 少女は短剣の切っ先を見つめ、それからヴェインの顔へと視線を上げた。



「怒っている人だ」



 挨拶も、何者かと問う言葉もない。


ただの事実の確認だった。



 ヴェインは否定しなかった。


自分の中に怒りなど残っていないと思っていた。


だが、何の色眼鏡も持たないこの少女の瞳には、凍りついたヴェインの奥底でくすぶり続ける、どす黒い炎の残滓ざんしが正確に見透かされているようだった。



 無意識に入っていた肩の力が抜け、短剣の切っ先が僅かに下がる。



 少女はそれを見ると、肩に提げていた粗末な袋に手を突っ込んだ。


取り出されたのは、ひび割れた黒パンの塊と、塩を吹いた硬い干し肉だ。


彼女はそれを、無造作にヴェインの方へと差し出した。



「食べる?」



 ヴェインは無言のまま短剣をさやに収め、その手から食料を受け取った。



 黒パンは石のように硬く、干し肉は古い血と獣の匂いがした。


だが、一口齧かじり取った瞬間、餓死寸前だった胃袋が暴力的なまでの収縮を起こし、無理やり食物を奥へと引きずり込んでいく。


あごの筋肉が悲鳴を上げ、喉が裂けそうになっても、咀嚼そしゃくを止めることはできなかった。



 這いつくばって泥をすすってでも生き延びようとする、人間の浅ましくも強靭な生存本能。



 ヴェインが必死に飲み込む様を、少女はただ静かに見つめていた。



 一息つき、胃の底に重い石のような満腹感を得た後。


ヴェインは口元を手の甲で乱暴に拭い、少女を見た。



「なぜ、こんな場所に一人でいる」



 少女は崩れた石臼いしうすの縁に腰を下ろし、手元の息吹束の先を指でもてあそんだ。



「村が焼けたから。でもここが好きだから」



 その声には、悲愴ひそう感も絶望も欠落していた。



 数ヶ月前。


東へ向かう巨大な軍勢――後に東征軍と呼ばれることになる軍勢の略奪隊が放たれたのだという。



夜陰に乗じて村は焼かれ、両親も、幼い弟も、逃げ遅れてすべて火に飲まれた。


少女はその事実を、まるで遠い異国の昔話を読み上げるように、ただ淡々と語った。



 生き残るための執着ではない。


帰る場所を失ったからでもない。


ただ、自分の世界のすべてだったこの土地の匂いと風景を愛しているから、灰の中に一人で座り続けている。



 狂気にも似たその純粋な愛着に、ヴェインはそれ以上何も言えなかった。



 夜が完全に明け、空が白緑色はくろくいろに染まっていく。



 二人は廃村の中央広場に移動し、少しの距離を空けて並んで座っていた。


遠くに見える険しい山脈の頂には、万年雪が鈍い銀色の光を放っている。


どこからか、雪解け水を集めた清流の音が、微かな耳鳴りのように響き続けていた。



「あなた、どこへ行くの」



 不意に、少女――エラが、遠くの山並みを見つめたまま口を開いた。



 ヴェインは自分の両手を見下ろす。


掌の古い傷跡に、泥と血がこびりついて黒く変色している。


家も、信仰も、未来も、すべてを失った男の空っぽの手。



「まだわからない」


「そう」



 エラはそれ以上追及しなかった。


ゆっくりと目を閉じ、両手で息吹束を胸の前で握りしめると、名もなき土着の神へ向けて静かな祈りを捧げ始めた。



 国教会のきらびやかな祭壇とは対極にある、泥と灰に塗れた祈り。



 ヴェインはその横顔を一度だけ深く見つめ、そして、ゆっくりと自分の前方の荒野へと視線を向けた。


吹き抜ける風が、彼の灰黒色の髪を乱暴に揺らしていく。



 ――キィ、と。



 甲高い金属音が、突如として鼓膜をつんざいた。



 少女の横顔が、朝靄の白さの中へ溶けて消える。


泥の匂いも、清流の音も、十年という圧倒的な時間の奔流ほんりゅうに押し流され、急速に遠ざかっていく。



 ヴェイン=グレイハルトは、ゆっくりと瞬きをした。



 目の前にあるのは、無限に広がる枯れ野ではない。


緻密に切り出された分厚い石の窓枠と、眼下に広がる王都の真新しい街並みだ。



 城壁の上。


朝の風を受けて激しく回っていた風見鶏が、ようやく一つの方向を指し示して止まった。



 あの雪の夜から十年。



 隣に座っていた少女は、もうこの世界のどこにもいない。


彼女の祈りも、あの静かな横顔も、ただヴェインの脳の奥底に彫り込まれた古い傷跡として存在するだけだ。



 冷え切った空気を一度だけ肺の奥深くまで吸い込み、吐き出す。



 ヴェインは窓際から離れ、執務机へと向き直った。



 きしむ革靴の音が、静寂の支配する広い部屋に重く響く。


椅子の背を引き、国家の重圧そのものである書類の山から、一番上の一枚を手に取る。



 羽ペンに黒々としたインクが吸い上げられた。



 王の一日が、始まる。



ヴェインは東から西に向かっていました。

エラは西からきた軍勢の略奪により流れてきた。


そんな感じです。

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