【第4話】
鉛色の空から絶え間なく降り続く雪は、いつしか身を刺すような氷雨へと変わっていた。
三日三晩。
まともな休息も取らずに境界地帯の荒野を彷徨い続けたヴェインの足取りは、もはや生者のそれではない。
泥濘に幾度も足を取られ、その度に這いつくばった衣服は重い泥を吸い込み、元の色が判別できないほどに汚れきっていた。
辿り着いたのは、西の枯れ野のさらに奥に位置する、名もなき廃村だった。
かつての領主である祖父の代に見捨てられた集落だろうか。
風化した石積みの壁は黒ずみ、朽ち果てた茅葺き屋根は無残に崩れ落ちている。
人々の生活を支えていたはずの共同井戸は枯れ果て、広場の石畳の隙間からは、霜枯れした雑草が墓標のように生い茂っていた。
辛うじて屋根の半分が残っている廃屋を見つけ、ヴェインは敷居を跨いだ。
その瞬間、限界を迎えていた膝が折れ、腐りかけた木の床に前のめりに崩れ落ちる。
肺が千切れるような呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと仰向けに寝返った。
空腹という感覚はとうに麻痺し、胃袋はただ冷たく硬い石くれのように腹の底に鎮座している。
所持品は、城の地下階段で突き飛ばした兵士の腰から咄嗟に奪い取った、無骨な軍用短剣が一本だけ。
重くかさばる公務用の印璽や、追手の目を引く金貨の袋は、逃走の過程で雪原に捨ててきた。
ただ、泥にまみれた外套の最も深い内ポケット——そこに隠し持った、当主の血族のみが受け継ぐ小さな『印章指輪』の冷たい感触だけが、胸元で微かな重みを主張している。
部屋の隅に、かつての住人が残していったらしい炉の跡があった。
灰に埋もれた炭の欠片と、湿った小枝が散乱している。
ヴェインは這うようにして炉に近づき、震える指で懐から火打ち石を取り出した。
カチッ。
鈍い音が鳴るだけで、火花は散らない。
雪と泥で芯まで凍りついた手は、自らの肉体でありながら全く別の生き物のように動かなかった。
感覚のない指先から石が滑り落ちる。拾い上げ、打ち据える。
石の角が痺れた親指の皮を削り取り、血が滲んでも、痛みすら感じない。落とし、また拾う。
その無様な反復が、己がいかに何一つ成し遂げられない無力な存在に成り果てたかを、容赦なく突きつけてくる。
幾度目かの試みの後、ようやく微小な火花が湿った小枝に燃え移った。
頼りない煙が立ち昇り、やがて親指ほどの小さな炎が生まれる。
ヴェインは冷え切った両手を炎にかざし、揺らめく光をじっと見つめた。
暖を取るためではない。
ただ、視線を固定する何かが欲しかった。
そうしなければ、脳裏にこびりついた映像が濁流のように溢れ出してきそうだったからだ。
流行り病で呆気なく逝った父の青白い顔。
事務的な手つきで剣を突きつけてきたバルトの、硝子玉のような目。
金貨の輝きに魂を売った神官の、脂ぎった背中。
そして、すべてを奪い取った叔父ガレンの、底知れない強欲。
(俺は、泣くのか)
燃え細る炎を見つめながら、心の中で自らに問う。
地位を奪われ、故郷を追われた。
昨日までの自分を形作っていた世界が完全に崩壊したのだ。
絶望や悲哀に打ちひしがれ、声を上げて泣き叫ぶのが、人間の当たり前の反応だろう。
しかし、ヴェインの薄灰色の瞳からは一滴の涙もこぼれ落ちなかった。
涙の涸れ谷を覗き込むような奇妙な静寂。
悲しむ術を忘れてしまったのか、それとも極限の疲労が感情の蓋を分厚く塞いでいるのか、自分でもわからない。
ただ、炎を見つめる己の心の中が、外の冬景色よりも遥かに冷たく、凍てついていることだけが理解できた。
パチリと、小枝が爆ぜて火が小さくなる。
それと呼応するように、ヴェインの中で何かが決定的に冷え固まり、重く沈殿していった。
夜の帳が薄れ始め、崩れた壁の隙間から白みかけた空が見える頃。
炉の火は完全に灰へと還ろうとしていた。
不意に、外の気配が変わった。
風の音ではない。
泥濘を慎重に踏みしめる、微かな足音。
ヴェインの瞼がわずかに下がる。
冷え切った指が、音もなく腰の短剣の柄を握りしめていた。




