【第39話】
雪解け水がグレイヴァルの大地を濡らし始める頃、アイゼンブルクへと続く西の街道は、巨大な泥の沼と化していた。
この道は、死に体の辺境領に西の商業都市から物資と資金という名の血液を送り込むための、唯一にして絶対の生命線である。
長年の圧政と放置によって所々が深く陥没し、荷馬車が通るどころか、人が歩くことすら困難なほどに崩落していた。
灰色の空の下、氷のように冷たい泥濘の中で、数十人の農民たちとダスクマーレから呼び寄せられた荒くれ者の工夫たちが、泥まみれになりながらツルハシを振るい、崩れた石組みを運び直していた。
「そっちの岩は基礎に使う! もっと深く掘り下げろ! 水の逃げ道を作らねぇと、春の長雨でまた土台ごと流されちまうぞ!」
現場監督として枯れ声で怒鳴り散らしているのは、老工兵のハインツだ。
彼の顔や作業着は泥で黒く汚れ、吐く息は白い。
過酷な重労働だ。
農民たちも痩せ細った体に鞭を打ち、歯を食いしばって土を突き固めている。
彼らの瞳には、バルトの鞭に怯えていた頃の絶望はないが、明日のパンすら保証されていないという切実な不安が、濃い影となって張り付いていた。
ぬかるんだ足音が響き、現場に一頭の馬が近づいてきた。
視察に訪れたヴェインである。
彼は護衛のクロードを少し離れた場所に待機させ、自ら単身で泥濘の奥深くまで足を踏み入れてきた。
灰黒色の豪奢な外套の裾が、容赦なく泥にまみれ、黒く染まっていく。
だが、ヴェインの薄灰色の瞳はそんなことには頓着せず、ただ修復の進捗と、働く民たちの疲労度合いを冷徹な視線で推し量っていた。
「……ヴェイン様。お出ましになるような場所じゃありませんぜ。泥が跳ねます」
ハインツが額の汗を汚れた袖で拭いながら、歩み寄ってきた。
「進捗は」
「岩盤の修復は三割といったところです。工夫たちも農民たちも、文句一つ言わずに泥を啜るように働いてくれていますがね……」
ハインツはそこで言葉を切り、周囲で黙々と働く農民たちへ視線を走らせた後、声を一段階低く落とした。
「問題は、給金です。……このままのペースで人を使い続ければ、月末の支払いまで手が回らなくなりますぜ。正直なところ、国庫から今月いくら出せるんです?」
「今月は、約束した額の半分しか出せない」
ヴェインは平坦な声で、残酷な事実を口にした。
三分の一税の公約によって農民の来年の命は繋いだが、現在の城の金庫は完全に空である。
ペトラからの裏資金をかき集めても、全員に満額の賃金を払う余力はどこにもない。
ハインツの顔が、目に見えて険しくなった。
「半分、ですか。……暴動が起きますぜ。彼らはヴェイン様の『法と契約』を信じて、痩せた体に鞭打ってこの泥水の中で働いている。最初の給金が半分しか出ないとなれば、領主の言葉はやはり美しい嘘だったと、たちまち不信の火が広がります」
「来月からは、正規の金額に利子を乗せて必ず払う」
ヴェインは瞬き一つせず、即答した。
「ミレイユが試算を出した。この道が仮復旧し、アイゼンブルクのイゾルデ商会から最初の物資と関税が入り始めれば、ひと月遅れで資金は十分に回る。計算上、破綻はない」
「……若様」
ハインツは深いため息をつき、ひび割れた手で自らの顔を覆った。
「あの数字の化け物のようなお嬢さんの計算は、俺も信じますよ。ですがね、今日明日のパンの耳を数えて生きている農民たちに、大商会との関税の遅行スパンだの、国家の信用収支だのという『理屈』が通じると思いますか?」
通じない。
腹を空かせた民衆にとって、高度な経済学の理屈など、支配者の都合の良い言い訳にしか聞こえない。
今月末に金が半分しか出ないという事実だけが、彼らの魂を打ち砕き、ようやく芽生えた信頼を無残にへし折るのだ。
老工兵の悲痛な問いに対し、ヴェインは冷たい冬の風の中で、静かに目を伏せた。
「……ああ。彼らには、数字は見えない」
論理では、民の心は動かない。
それが権力という名の盤面における、最大の不合理であり、絶対の真理だった。
ヴェインはゆっくりと顔を上げると、おもむろに自らの首元に手をかけた。
そして、王の象徴でもある上質な灰黒色の外套を脱ぎ捨て、泥の上に無造作に放り投げたのだ。
さらに、下に着ていた仕立ての良い上着までも脱ぎ、簡素な麻のシャツ一枚の姿になる。
「ヴェ、ヴェイン様……?」
「農民たちが、目に見えない来月の数字を信じられないのは当然だ」
ハインツが驚愕して言葉を失う中、ヴェインはシャツの袖を肘まで荒々しく捲り上げた。
その右手の掌に深く刻まれた、生々しい刃の傷跡が冬の空気に晒される。
「だから、信じてもらうために、俺も一緒に働く」
氷のように平坦だった彼の声に、微かな、しかし確かな『熱』が混じっていた。
ヴェインはハインツの横を通り抜け、足首まで泥濘に埋まりながら、最も過酷な岩運びの列へと無言で歩み寄った。
そして、農民たちが二人がかりで持ち上げようと苦戦していた巨大な基礎石の端に手をかけ、己の全体重を乗せて泥の中から引きずり出したのだ。
「りょ、領主様……!?」
「ヴェイン様、いけません! そんな泥仕事など——!」
農民たちが悲鳴のような声を上げ、作業の手を止めた。
支配者が、泥にまみれて土木作業を行うなど、この大陸の歴史においてあり得ない狂気だ。
彼らは畏れおののき、あるいは後ずさりをした。
だが、ヴェインは彼らの方を見向きもせず、額に青筋を立てて巨大な岩を運んだ。
泥が跳ね、シャツが汚れ、冷たい泥水が靴の中まで浸水する。
それでも彼は顔色一つ変えず、岩を基礎の穴へと落とし込み、傍らにあった重い突き棒を手に取って、自ら土を固め始めた。
「手を止めるな」
荒い息を吐きながら、ヴェインは背後の農民たちに短く命じた。
そこに美しい演説はない。
権力を笠に着た威圧もない。
ただ、自らの血肉と汗を同じ泥の中で消費するという、極限まで不器用で、だからこそ一切の嘘がない絶対的な行動の提示だけがあった。
この男は、本気なのだ。
美しい言葉や文書だけで自分たちを動かすのではなく、自らが最も重い泥を被ることで、共にこの死に体の国を生き延びようとしている。
農民たちの濁っていた瞳の奥に、言葉では説明できない強烈な熱が灯った。
一人、また一人と、彼らは無言でツルハシを握り直し、ヴェインの隣に並んで泥を掻き出し始めた。
ハインツは呆然と立ち尽くし、やがて顔をクシャリと歪めて、泣くように笑った。
「……まったく、とんでもない王様を戴いちまったもんだ」
その日の午後遅くまで、冷たい泥濘の中でツルハシを振るう音が止むことはなかった。
王と民が同じ泥にまみれ、同じ痛みを共有して流したその日の汗は、いかなる強固な法や契約の文書よりも深く、グレイヴァルの民の魂の底に「ヴェイン=グレイハルトへの絶対の信頼」という名の、決して崩れることのない礎を打ち立てたのであった。




