【第38話】
凍てつく冬の風が城の厚い石壁を叩く中、グレイヴァル城の会議室には、重苦しく、そして張り詰めた空気が淀んでいた。
長机の片側に座るのは、コル老人をはじめとする、各村から集められた数名の農民代表たち。
彼らの顔には深く刻まれた皺と、長年の圧政によって染み付いた抜き難い疲労が影を落とし、机の上に置かれた手は泥とあかぎれで黒くひび割れていた。
そして彼らと対峙するように長机の反対側に座るのは、領主たるヴェインと、その傍らで音もなく羽ペンを走らせるミレイユである。
「今年の秋の収穫から、税は一律で三分の一とする」
ヴェインの平坦で冷え切った声が、会議室に響いた。
それは、ミレイユが徹夜で弾き出した、領民が餓死せず、かつ来年の種籾を残しつつ城の機能をギリギリ維持できる、極限の生存ラインの数字だった。
「いかなる名目の付加税も、大国ヴェルミリアへの上納金としての追加徴収も、今後一切禁ずる。お前たちは、収穫の三分の二を自分たちの手元に残して構わない」
三分の一。
それはかつて父ヴァルターの時代にすらあり得なかった、破格すぎるほどに低い税率だ。
歓喜の声が上がるかと思われた。
だが、農民代表たちの顔に浮かんだのは、喜びではなく、いっそう深い警戒と疑心暗鬼の濁った色だった。
やがて、コル老人が震える声で、ひび割れた唇を開いた。
「……ヴェイン様。以前も、そう仰った領主がおりました」
老人の濁った瞳の奥に、過去の惨劇の記憶がよみがえる。
「ガレン様も、赴任された当初は甘い言葉を並べました。今年は税を軽くする、と。しかし……いざ冬の足音が聞こえ始めると、ヴェルミリアの意向だと言ってバルトの兵たちが村にやってきて、倉の扉を叩き割り、私たちの生きるための麦まで根こそぎ奪っていきました。……我々はもう、美しい言葉だけでは、腹を膨らませることも、安心することもできませぬ」
それは、支配者という存在そのものに対する、血を流し続けた民衆の悲痛な絶望の吐露だった。
封建制において、領主の言葉は絶対だ。
気が変われば、昨日の約束など今日の気まぐれで容易に反故にされる。
その重い糾弾を前にしても、ヴェインの薄灰色の瞳は微塵も揺らがなかった。
怒ることも、哀れむこともしない。
彼は無言のまま、ミレイユの前に置かれていた白紙の上質な羊皮紙を、自らの手元へと引き寄せた。
「では、文書にしましょう」
インク壺にペン先を浸し、ヴェインはさらさらと文字を書き付け始めた。
「文書、でございますか?」
「そうだ。私が今の条件を公的な誓約として書き記し、この場にいる全員の前で署名し、グレイハルトの印章を押す。さらに——」
ヴェインの手が止まり、氷のような視線が農民たちを真っ直ぐに射抜いた。
「私がこの約定に違反し、三分の一以上の税を不当に徴収した場合、領主たる私自身に科せられる罰則と、お前たちへの賠償も明記する」
会議室の空気が、文字通り凍りついた。
コル老人の目が限界まで見開かれ、他の農民たちも互いの顔を信じられないものを見るように見合わせた。
領主が農民に対して、自らを縛る罰則付きの誓約書を出す。
それはこの大陸の歴史において、前代未聞の異常事態だ。
支配者と被支配者という絶対的な上下関係を自ら破壊し、法と条件の下に対等に縛り合う「契約」という概念を、この辺境の雪深い地に持ち込もうとしているのだ。
「これは契約です」
ヴェインの声は、いつものように抑揚がなかった。
だが、その言葉の質量は、農民たちの魂の根底を激しく揺さぶるほどの重さを持っていた。
「私がこの紙に書かれたことを守らなければ、あなたたちには、この私を訴える権利がある」
差し出された真紅の封蠟と印章が押された羊皮紙。
コル老人は震える両手でそれを受け取り、涙で滲む目で、そこに記された自分たちの命を保証する「文字」を、まるで神の啓示でも見るかのように食い入るように見つめた。
一時間後。
茫然自失としながらも、確かな希望の火を胸に抱いた農民たちが退室し、執務室にはヴェインとミレイユの二人だけが残された。
ミレイユは机の上のインク壺に蓋をしながら、硝子のように冷たい瞳でヴェインを見やり、淡々と口を開いた。
「……見事な人心掌握術ですが、一つだけ致命的な欠陥があります」
「なんだ」
「領民にあなたを訴える権利を気前よく与えましたが、現在のグレイヴァルには、領主を裁くための独立した司法機関も、民衆からの訴えを受理する仕組みも存在しません。あの立派な誓約書は、現時点ではただの美しい紙切れです」
ミレイユの指摘は、極めて論理的で残酷な事実だった。
法を執行する機関がなければ、契約は機能しない。
しかしヴェインは、窓の外の灰色の空を見つめたまま、平然と答えた。
「作ります」
「……はい?」
「領主の権力から完全に独立した、民衆審判員制度を設ける。法の下では領主も民も同等に裁かれる、新しい仕組みだ」
その言葉の途方もないスケールに、ミレイユは帳簿を片付ける手をピタリと止めた。
絶対的な権力を持つはずの王が、自らの手足を縛るための枷を、自らの手で一から設計しようというのだ。
それは大国ヴェルミリアの法体系すら凌駕する、あまりにも急進的で狂気じみた発想だった。
「……制度を設計し、法を整備し、機関を作ってから契約を結ぶのが筋です。順番が逆では?」
ミレイユの静かなツッコミに、ヴェインは初めて窓から視線を外し、彼女の冷たい知性の光を宿す瞳を正面から見据えた。
「正しい順番で進めていたら、間に合わない」
それは、大国という巨大な怪物が再び牙を剥くまでの猶予が、すでに砂時計からこぼれ落ち始めていることを誰よりも理解している、彼なりの焦燥と極限の合理性だった。
数秒の沈黙の後。
ミレイユの平坦な唇の端が、微かに弧を描いた。
「……無茶苦茶な盤面ですね」
彼女はため息をつきながらも、その手はすでに新しい白紙の羊皮紙を引き寄せ、新たな制度設計のための計算式を頭の中で組み上げ始めていた。
「ですが……計算のしがいがあります」
死に体の領地と、狂った合理主義の若き王。
そして数字の亡者たる冷徹な補佐官。
後に大陸全土の秩序を根底から揺るがすことになる「法による統治」という名の恐るべき兵器の第一歩は、この冷え切った辺境の執務室で、二人の異端者による倒錯した順番のまま、静かに産声を上げたのである。




