【第37話】
玉座を取り戻した熱狂は、冷酷な数字の羅列によって、わずか数日で凍りついた。
グレイヴァル城の領主執務室。
分厚いオーク材の机の上に広げられた数枚の羊皮紙を前に、老工兵のハインツと、領民の顔役であるコル老人が、鉛を飲んだような重い沈黙に沈んでいた。
「……税収は、ほぼゼロに近い」
ヴェインの平坦な声が、暖炉の火の爆ぜる音だけが響く部屋に落ちた。
机上の羊皮紙に記された数字は、この辺境領がいかに徹底的に搾取され、壊死しかけているかを残酷なまでに示していた。
バルトが冬を越すための蓄えまで見境なく徴収し、それをヴェルミリアの機嫌取りやガレンの私財へと注ぎ込んだ結果だ。
「農地の三分の一は、働き手を失って完全に荒廃しています」
コル老人が、指を二本失った右手で痛ましそうに顔を覆った。
「春になっても、種籾すらろくに残っておりません。それに……」
「アイゼンブルクへ続く西の商業路が、機能していない」
ヴェインが報告書の一文を指で叩き、言葉を引き継ぐ。
ハインツが重い溜め息をつき、首を横に振った。
「バルトの時代に街道の補修が完全に止まっていやがった。雪解け水が抜けきらず、荷馬車が走るには危うい箇所がいくつもある。それより深刻なのは、銀流川の渡河路だ。橋がなく、現状はダスクマーレ経由の迂回路しか使えない。輸送距離にして倍以上。アイゼンブルクから大量の物資を融通してもらおうにも、運ぶための道が死んでいやがる」
「現在の城と領民を合わせた備蓄食料は」
「……長めに見積もっても、二ヶ月分。それでおしまいです」
二ヶ月。
それは、冬が明けきる前にこの土地の民が飢え死にするという、明確な死の宣告だった。
バルトを処刑し、自由を取り戻したところで、腹は膨れない。
大国ヴェルミリアからの軍事的な圧力の前に、グレイヴァルは内側から餓死という形で崩壊しようとしていた。
コン、コン、と。
絶望的な空気の立ち込める執務室の分厚い扉が、控えめに叩かれた。
入室を許可すると、ペトラに案内されて一人の若い女が姿を現した。
年齢はヴェインと同じか、少し上くらいだろうか。
飾り気のない簡素な外套を羽織り、髪を後ろで一つにまとめている。
一見すればどこにでもいる町娘のようだが、彼女の瞳の奥には、感情の揺らぎを一切感じさせない、冷たい硝子のような知性の光が宿っていた。
「突然の訪問をお許しください。アイゼンブルクの商業ギルド長、イゾルデ様より紹介状を預かって参りました」
女は深く頭を下げ、懐から紫丁香花の香りがする封書を差し出した。
ヴェインがそれを受け取り、無言で封を切る。
そこには『私の商会でも持て余している、とびきり厄介な数字の亡者を一人貸し付ける。使い潰すなり、煮て食うなり好きにしなさい』という、イゾルデらしい皮肉に満ちた推薦状が入っていた。
「ミレイユと申します。……この領地の、死に体の財政を立て直すお手伝いができるかと思い、参上いたしました」
ミレイユと名乗った女は、背負っていた革鞄から、ずっしりと重い数冊の革表紙の帳簿を取り出し、ヴェインの机の上に滑らせた。
「これは」
「私が外から計算した、現在のグレイヴァルの財政試算と、向こう三年の復興計画書です」
ヴェインは薄灰色の瞳を細め、一番上にある帳簿を開いた。
ページを捲る音が、静かな部屋に響く。
パラ、パラ……と最初は一定のリズムだったその音が、十ページを過ぎたあたりでピタリと止まった。
ハインツとコル老人が不思議そうに顔を見合わせる。
常に冷徹な王の顔を崩さないヴェインの目が、微かに、だがはっきりと驚愕に見開かれていたからだ。
記されていたのは、単なる収支の予測ではない。
荒廃した農地の回復曲線、アイゼンブルクとの物流が復旧した場合の関税の最適化。
さらには大国ヴェルミリアの経済依存度を下げるための、南の軍事国家テネブラとの仮想的な貿易摩擦の予測と、その比較分析までが、恐ろしいほど緻密な数式と論理で構築されていた。
それは、一介の商人が作るような出納帳の次元を遥かに超えている。
国家という巨大な盤面全体を上空から見下ろし、大国同士の力学すらも数字という名の暴力でねじ伏せようとする、狂気じみた『兵器』の設計図だった。
「……あなたが作ったこの試算は、どこで学んだ」
ヴェインは帳簿から顔を上げ、ミレイユを真っ直ぐに見据えた。
「独学です」
ミレイユは瞬き一つせず、平坦な声で答える。
「南のテネブラと東のヴェルミリアの比較分析まで入れている。為政者向けの高等教育機関か、よほどの大商会の奥の院でなければ、独学でここまでの視点を持つことは普通はできない」
ヴェインの鋭い指摘に対し、ミレイユの硝子のような瞳が、ほんのわずかに揺らいだ。
彼女の過去に何があったのかはわからない。
だが、その冷え切った知性の裏側には、社会の枠組みから外れ、数字の海だけを頼りに生き延びてきた者特有の、強烈な孤独の匂いが染み付いていた。
「……普通に、なる必要がなかったからです」
ミレイユは、まるで己の人生のすべてをその一言に圧縮するように、静かに答えた。
普通になれないからこそ、世界を解体し、数字という絶対的な真理だけを信じてきた。
その極端な合理主義と、世界に対する静かなる絶望は、ヴェインが己の内に飼っているそれと、酷似した手触りを持っていた。
ヴェインはパタン、と静かに帳簿を閉じた。
そして、一切の躊躇なく宣告する。
「雇います」
あまりにも早い即決に、ハインツが小さく咳き込んだ。
身元もろくにわからない女に、国家の金庫の鍵を丸ごと渡すと言っているに等しい。
ミレイユ自身も、ほんの少しだけ目を丸くした。
「……私の素性も深く聞かずに、ですか。では、条件を聞かせてください。私がこの領地で働くにあたっての、報酬と権限を」
雇い主が、使用人に対して条件を提示する。
それが社会の『普通』の構造だ。
だが、ヴェインは机の上で静かに手を組み、薄灰色の瞳でミレイユを見つめ返した。
そこにあるのは、支配者から下働きへ向けられる視線ではない。
同じ盤面に立ち、共に死地を歩く「同類」へと向けられる、絶対的な信頼と対等の眼差しだった。
「あなたから、聞かせてください」
氷のように透き通った声が響く。
「この死に体の国を再生させるために、あなたにいくら払い、どれほどの権限を与えれば最も効率が良いのか。その計算も、すべてあなたに委ねます」
数秒の、重く静かな空白が落ちた。
ミレイユの唇の端が、初めて微かに弧を描いた。
それは、数字の亡者がついに、己の狂気じみた計算をすべて注ぎ込むに足る、本物の『王の盤面』を見つけた瞬間の、冷たくも美しい微笑みだった。




