【第36話】
グレイヴァル城の中心に位置する領主執務室。
かつて父ヴァルターが領民のために筆を走らせ、その後は叔父ガレンが己の欲望を満たすための装飾品で埋め尽くしていたその部屋は、今や徹底的に無駄を削ぎ落とされた、冷え切った実務の空間へと変貌していた。
壁に掛けられていた豪奢なタペストリーや金細工はすでに売り払われ、冬を越すための薪と麦に換えられている。
分厚いオーク材の机の上にうずたかく積まれているのは、バルトの圧政によって疲弊しきった村々の被害報告書と、空になりかけた米倉の目録だけだ。
部屋の空気を満たすのは、暖炉の爆ぜる乾いた音と、羊皮紙をめくる微かな摩擦音。
ヴェインは机の前に深く腰を下ろし、一枚の特別な書簡に薄灰色の瞳を落としていた。
西の商業都市アイゼンブルクのギルド長、イゾルデからの密書である。
無骨な報告書が並ぶ机の上で、その羊皮紙だけが上質な羊の皮をなめした滑らかな手触りを持ち、没食子インクの匂いとともに、微かな紫丁香花の香水の香りを漂わせていた。
『——あなたの叔父君の行方について、
我が商会の耳目が僅かな痕跡を捉えたわ。
奪還の夜、あの男はバルトを見捨て、
己の蓄えだけを馬車に積んで秘密の抜け道から逃亡
した。
車輪の轍と関所の商人の証言から、
大国ヴェルミリアの方角へ向かったことは間違いな
い。
哀れな風見鶏は、最後に一番大きな親鳥の羽の中に
逃げ込んだというわけね』
ヴェインは書簡を読み終えると、表情ひとつ変えることなく、それをゆっくりと机の上に置いた。
叔父ガレン。
父ヴァルターを大国の毒牙にかけ、正統な血筋である自分を雪の夜に追放し、領民たちを恐怖の底に突き落とした張本人。
すべての元凶たる男が、自らの手を血で汚すこともなく、生き延びてヴェルミリアの懐へと逃げおおせたのだ。
「……西の女狐からの恋文か?」
執務室の入り口の壁に背を預けていたクロードが、大剣の柄に腕を乗せたまま、低く嗄れた声でからかった。
彼もまた、連日の事後処理で疲労の色が濃い。だが、その獰猛な双眸の奥には、いつでも敵の喉笛を噛み千切る準備ができている傭兵特有の光が宿っていた。
「叔父ガレンの行方だ」
ヴェインは平坦な声で答えた。
「ほう」クロードの太い眉がピクリと跳ね上がる。
「で、あの腐った豚は、どの泥水の中で震えてるんだ? 俺の部隊を動かせば、三日以内に首だけを木箱に詰めて持ち帰ってやるぞ」
「ヴェルミリアの国境方面へ逃げたそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、クロードの纏う空気が鋭く張り詰めた。
ヴェルミリアへの逃亡。
それは単なる逃走ではない。
ガレンが大国に保護を求め、彼らがグレイヴァルに軍事介入するための「正当な領主からの救援要請という名の大義名分」を与えることを意味する。
「……なら、尚更だ。今すぐ追撃の騎馬を出せ。国境を越えられる前に尻尾を掴んで息の根を止めねぇと、面倒なことになるぞ」
傭兵としての極めて合理的かつ戦術的な進言。
しかし、ヴェインは机の上で両手を静かに組み、書簡から視線を外して冬の空を切り取る窓へと目を向けた。
長い、氷のような沈黙が執務室に落ちる。
ヴェインの脳内では、何通りもの盤面のシミュレーションが超高速で展開されていた。
今、兵を割いて東の国境へ向かわせれば、大国の斥候部隊と偶発的な衝突を起こすリスクがある。
テネブラとの「緩衝地帯」としての密約が完全に機能する前にヴェルミリアの正規軍を刺激することは、グレイヴァルという国そのものを致命的な危機に晒す悪手だ。
「追わない」
やがて、ヴェインの口から零れ落ちたのは、極限まで圧縮された氷の宣告だった。
「……なんだと?」
「今は領地の立て直しが先だ」
ヴェインはクロードを真っ直ぐに見据え、一切の感情を排した声で続けた。
「城の修繕、領民の越冬準備、そして南のテネブラとの外交ラインの確立。やるべきことが山積している。国境付近での大国との摩擦は、今もっとも避けるべき事態だ。……ガレンはいずれ出てくる。己の欲望を満たすために、必ずヴェルミリアの軍靴の陰から姿を現す。その時に、盤面の上で確実に捕らえる」
それは、為政者として百点満点の、完璧すぎるほど冷徹な論理だった。
だが、クロードは納得しなかった。
彼は壁から背を離し、巨熊のような体躯でヴェインの机の前まで歩み寄ると、その両手を激しく机に叩きつけた。
ドン、という重い音が響く。
「……あんた、怒らないのか」
クロードの声には、静かな凄みがあった。
実の父親を毒殺され、領民を死の淵まで追いやった仇だ。
それを「後回しにする」と平然と言ってのける目の前の青年の精神構造が、クロードには時として本物のバケモノのように感じられたのだ。
「怒っている」
ヴェインの声は、囁くように低かった。
クロードは思わず息を呑んだ。
ヴェインの薄灰色の瞳の奥に、世界を焼き尽くすほどの漆黒の炎が、音もなく渦を巻いているのを見たからだ。
怒っていないはずがない。
父の死の真相を知ったあの夜から、ヴェインの心臓は常に復讐の熱で焦がされ続けている。
だが、彼はその巨大な激情を、論理と計算という分厚い氷の檻に閉じ込め、己の権力行使の動力源としてのみ使用しているのだ。
「だから、今は動かない」
怒りに身を任せて兵を動かせば、民が死ぬ。
だから、殺意を極限まで研ぎ澄まし、来るべき完璧な瞬間のために温存する。
それは恐ろしいほどの自己制御能力だった。
しかし同時に、その氷の檻がいずれその内なる熱量に耐えきれなくなり、彼自身を壊してしまう日が来るのではないかという、決定的な破綻の予兆でもあった。
クロードは何も言えず、ただ重い溜め息をついて机から手を離した。
窓の外では、雪雲がさらに厚みを増し、グレイヴァルに長く厳しい冬の到来を告げようとしている。
逃亡した叔父と、玉座に座る若き王。
血塗られた親族の因縁はここで途切れることなく、はるか先——未来の破滅的な決着へと向けて、静かに、そして確実にその根を伸ばし始めていた。




