【第35話】
血と炎の匂いが風にさらわれ、グレイヴァルの空に透き通るような冬の朝陽が差し込んでいた。
バルトの処刑から一夜が明け、領主の居城の前にある広大な石畳の広場には、早朝から数え切れないほどの領民たちが押し寄せていた。
ダスクマーレの泥濘から帰還した逃亡農民たちだけではない。
過酷な重税と鞭の恐怖に耐えかね、家の中に息を潜めていた城下の民衆もまた、新しい時代の輪郭をその目で確かめるために集まっていたのだ。
人々の吐く白い息が、濃密な霧のように広場を覆っている。
彼らの顔に浮かんでいるのは、圧政から解放されたという安堵と、この平和が本物なのかという拭いきれない不安が入り交じった、極度の緊張だった。
やがて、重厚な城壁のバルコニーに、一つの影が静かに姿を現した。
灰黒色の外套を纏った若き青年、ヴェイン=グレイハルト。
かつて父ヴァルターが、領民たちに温かな言葉を投げかけていたのと同じ場所に、今、死の淵から舞い戻った正統な王位継承者が立っている。
広場を埋め尽くしていた数千のざわめきが、まるで巨大な獣が息を呑むように一瞬にして静まり返った。
ヴェインは冷え切った石の欄干に手を置き、眼下の民衆を静かに見下ろした。
冷たい風が彼の銀糸のような髪を揺らす。
彼の脳裏には、統治者として民衆の心を掴むための、耳障りの良い演説の草稿がいくつも浮かんでいた。
「共に豊かな領地を築こう」「もう誰も不当に血を流すことはない」——そうした美辞麗句を並べ立て、父の面影を重ね合わせて感動を誘うのは、政治的な盤面において極めて容易で、かつ有効な手だ。
だが、ヴェインはそれらの選択肢を、氷のような論理で瞬時にすべて切り捨てた。
希望を煽る言葉は、いざ大国ヴェルミリアという巨大な怪物が牙を剥いた時、致命的な嘘に変わる。
これから始まるのは、温かな復興ではない。
大陸の力学を根底から覆すための、さらに過酷な生存戦略なのだ。
嘘で塗り固められた熱狂など、この冷徹な盤面には必要ない。
ヴェインは薄灰色の瞳で広場を見渡し、張り詰めた冬の空気の中、極限まで削ぎ落とされた二つの言葉だけを落とした。
「帰りました」
よく通る平坦な声が、石造りの城壁に反響し、広場の隅々にまで届く。
「ここから、始めます」
それだけだった。
未来への確約も、感動的な決意表明もない。
ただ、死んだはずの自分がこの地に戻り、今この瞬間が始まりであるという、揺るぎない事実だけの提示。
数秒の、奇妙な空白が落ちた。
しかし次の瞬間、広場の最前列で震えていたコル老人が、両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き崩れた。
それを合図にしたかのように、広場から爆発的な歓声が天を突いた。
飾られた言葉がないからこそ、その冷え切った声の底にある「決して逃げない」という絶対的な意志が、彼らの魂を芯から震わせたのだ。
「ヴェイン様……! おお、我らの王が……!」
コル老人の皺だらけの頬を、熱い涙が止めどなく伝い落ちる。
歓喜に沸く群衆の少し離れた場所では、エラが農民の子どもたちに囲まれ、いつものように無邪気な笑い声を上げていた。
泥だらけの少女が屈託なく笑うその姿は、この凍てつく盤面に咲いた、奇跡のような日常の象徴だった。
さらに人混みの後方では、豪商の影を背負うペトラが、計算高い瞳を細めながらも、どこか誇らしげに口角を上げて全体を観察している。
老工兵のハインツは、城門の影で静かにパイプに火を点け、小さく頷いていた。
ヴェインはバルコニーから、その光景を無言で見下ろしていた。
歓声の波を一身に浴びながらも、彼の表情には一切の陶酔がない。
傍の石壁には、背中を預けて腕を組むクロードが立っていた。
大剣を背負った巨漢の傭兵は、眼下の熱狂には目もくれず、ただ静かに、雲の切れ間から覗く冬の空を見上げていた。
ギィィ……と。
乾いた風が吹き抜け、バルコニーの端に立つ古い木製の旗竿が、悲鳴のような音を立てて軋んだ。
その先端には、何も掲げられていない。
かつて父の時代に翻っていた領主の紋章旗は、ガレンの手によってとうの昔に焼き捨てられていた。
空を指すだけの無骨な棒切れ。
それは、この土地がまだいかなる色にも染まっていない、何もない「始まり」に過ぎないことの残酷な象徴であった。
ヴェインは軋む旗竿を見つめ、一切の抑揚のない声で傍らのクロードに命じた。
「灰色の旗を作れ。……風見鶏の紋章もつけろ」
クロードが、組んでいた腕を解き、太い眉をピクリと動かした。
「灰色の風見鶏」——それはかつて、大国ヴェルミリアの顔色を窺い、風の吹くままに保身を図っていた無能な領主代行たるヴェインに投げつけられた、最大の蔑称だ。
それを、あえてこれからの国家の象徴として玉座の頭上に掲げろというのだ。
風を読み、盤面の全ての力を利用して世界を喰い尽くす。
かつての屈辱すらも極めて合理的な『兵器』として再利用する、ヴェインという男の底知れぬ業と静かなる狂気。
「……趣味が悪い」
クロードは呆れたように鼻を鳴らし、低く嗄れた声で吐き捨てた。
しかし、その獰猛な顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
数多の戦場と死の裏面を歩き続けてきた傭兵が、この恐ろしく不器用で冷徹な若き王の傍らに、己の魂を下ろす居場所を確かに見つけたという、彼なりの照れ隠しの毒舌だった。
眼下では、領民たちの歓声がなおも止むことなく響き続けている。
風が再び強く吹き抜け、空っぽの旗竿を鳴らした。遠からず、そこに灰色の旗が翻る。
グレイヴァルは、取り戻された。
だが、ヴェインの薄灰色の瞳はすでに、この熱狂の先にある、大国との血みどろの外交戦と、未だ逃亡を続ける叔父ガレンの首へと冷徹に向けられていた。




