【第33話】
凍てつくような冬の夜気の中、東の空の輪郭がわずかに白らみ始めていた。
すべてが重く沈むような、灰色の夜明け。
グレイヴァル奪還の火蓋が切られる刻である。
ズゥン、という鈍い爆発音が、グレイヴァル城の北側から響き渡った。
老工兵ハインツが旧水門跡の腐った石組みに仕掛けた、少量の火薬の音だ。
城を警護していた兵たちの意識と視線が、一斉に北の崩落へと向く。
その決定的な隙を突き、城の反対側——東の裏門で、鈍く重い金属音が鳴った。
内応者である農夫のコル老人が、震える手を血に滲ませながら、ただ一人で分厚い鉄の閂を外し、門を内側から開け放ったのだ。
「行けッ!」
クロードの低く太い号令と共に、闇に潜んでいた二十名の傭兵たちが、雪を蹴立てて城内へと雪崩れ込んだ。
彼らはダスクマーレの泥濘とアイゼンブルクの裏街で生き抜いてきた、本物の獣たちだ。
温かい寝床から叩き起こされ、慌てて武器を手にしたバルトの正規兵たちに、彼らの暴力の奔流を止めることなどできるはずもなかった。
剣戟と怒声が響く。
だが、戦闘はひどく一方的で、そして短かった。
バルトの兵たちは恐怖政治に縛られていただけで、死を賭して戦うほどの忠誠心を持ち合わせていない。
傭兵たちはクロードの厳命により、武装を捨てて降伏する者には一切刃を向けず、圧倒的な圧力で城内を制圧していく。
一方、城から離れた国境の関所。
半鐘のけたたましい音が風に乗って届く中、マルク将校の率いる部隊は、雪深い峠道で完全に沈黙を守っていた。
「隊長! 城で暴動の兆しが! すぐに救援に向かわねば……!」
焦燥に駆られる部下に対し、マルクは馬の背から微動だにせず、冷たく言い放った。
「猛吹雪で視界が利かない。この暗闇で下手に動けば、部隊が二次被害に遭う。夜明けまで、本隊はここに待機とする」
天候は荒れてなどいない。
だが、隊長の絶対的な命令に逆らえる兵は一人もいなかった。
それは、誇り高き軍人が主君に背く代わりに選んだ、誓約通りの『不作為』という名の重い沈黙だった。
城内の阿鼻叫喚の中、実務を取り仕切っていたバルトは、己の破滅を悟り、少数の護衛と共に主塔の最上階へと逃げ込んでいた。
分厚いオーク材の扉に重い鍵を下ろし、荒い息を吐く。
しかし次の瞬間、その堅牢な扉は、クロードの振るう規格外の大剣のフルスイングによって、金属の蝶番ごと呆気なく吹き飛ばされた。
木っ端微塵に砕け散る扉。
護衛の兵たちはその圧倒的な暴力の前に戦意を喪失し、剣を捨てて床に這いつくばる。
土煙と冷気が渦巻く中、静かな足音が石の床を叩いた。
灰黒色の外套を翻し、ヴェイン=グレイハルトが主塔の部屋に足を踏み入れる。
右の手には、かつてこの城の地下で奪い取った抜身の軍用短剣が、鈍い銀色の光を放っていた。
バルトは壁際まで後ずさり、血走った目で目の前の青年を睨みつけた。
あの雪の夜、無力なまま城を追われ、死んだはずの正統な王位継承者。
「……お前は、謀叛人だ!」
バルトが、恐怖と混乱で震える声で叫んだ。
「正統な領主たるガレン様に弓を引くなど、決して許されることではない!」
「あなたが最初にそれをした」
ヴェインの平坦で冷え切った声が、バルトの絶叫を容赦なく叩き斬った。
そこに怒りの熱はない。
ただ、氷の底を滑るような冷徹な事実の提示だけがあった。
「私は……っ、私はただ、ガレン様の命令に従っただけだ! 補佐役として、領主の命令に逆らうことなどできなかった!」
保身のための哀れな弁明。
バルトはただの精巧な道具だ。
所有者の命令を完璧に執行するだけの、感情を持たない刃。
ヴェインはその構造をとうの昔に理解している。
ヴェインは一歩、バルトへと距離を詰めた。
薄灰色の瞳が、極寒の刃となって男の魂の底を射抜く。
「父を殺した命令も?」
ピタリと。
主塔の空気が、完全に凍りついた。
クロードでさえも息を呑む。
ヴェインが初めて、己の口から直接、父ヴァルターの暗殺について言及した瞬間だった。
バルトの喉が引きつり、口が半開きになる。否定の言葉を探すように硝子玉のような眼球が激しく泳ぐが、その口からは、ヒューという掠れた呼吸の音しか漏れ出ない。
否定しない。
いや、否定できないのだ。
その重すぎる沈黙こそが、何よりも雄弁な『肯定』の証だった。
ヴェインは無言のまま、短剣を握る右手の傷跡に、じわりと力を込めた。
胸の奥底——外套の最も深い内ポケットで、エラから託された息吹束が、微かな温もりを放っているのを確かな重みとして感じながら。




