【第32話】
ダスクマーレの石造りの倉庫は、研ぎ澄まされた刃のような緊張感と、微かな熱気に満ちていた。
部屋の中央、長机の上に広げられたグレイヴァル城の図面を前に、作戦の最終確認が行われている。
明日、雪解けを待つ東の辺境へ向けて、彼らはついに出陣する。
「戦力は、俺がダスクマーレとアイゼンブルクの裏街から叩き上げた傭兵二十名だ」
クロードが図面の端を指で叩き、獰猛な笑みを浮かべた。
数は少ないが、一年をかけて彼が自ら鍛え上げ、ヴェインの灰色の旗の下に集った死線を越えるための精鋭たちだ。
「城壁の弱点は、北側の旧水門跡だ」
老工兵ハインツが、図面の一点を指の腹で静かに示した。
「あそこの石組みは、基礎から水が回って腐っている。俺の細工と少量の火薬があれば、大きな音を立てずに大人一人が通れるだけの穴を穿てるはずだ」
「内応者のコル爺さんからも、最終の合図が来てるよ」
ペトラが暗号の記された小さな羊皮紙を机に滑らせた。
「明日の深夜、兵の交代の隙を突いて東の裏門を開ける。マルク将校の部隊は、予定通り『吹雪による立ち往生』で国境から一切動かない」
ヴェインは図面を見下ろしたまま、静かに頷いた。
すべてが計算通りだ。
一年という歳月をかけて盤面に配置した駒たちが、明日、一斉にグレイヴァルの心臓へと殺到する。
「……各自、明日に備えて休んでくれ」
ヴェインの平坦な指示で、作戦会議は解散となった。
深夜。
ダスクマーレの街外れ。
冷たい夜風が吹きすさぶ丘の上で、ヴェインはただ一人、闇に沈む東の方角——故郷グレイヴァルのある空を静かに見つめていた。
計算は完璧だ。
しかし、命のやり取りにおいて『絶対』は存在しない。
明日、自分は死ぬかもしれないし、己を信じてくれた仲間たちを死なせるかもしれない。
王としての重圧が、目に見えない巨大な鉛となって肩にのしかかっている。
背後の枯れ草が、微かに擦れる音がした。
振り返らなくてもわかる。
エラだ。
彼女は音もなくヴェインの隣に並ぶと、同じように東の空を見上げた。
「怖い?」
夜風に溶けるような、静かな声だった。
「怖くはない」
ヴェインは前を向いたまま、為政者としての強固な殻を被って即答した。
しかし、エラはヴェインの顔をじっと見上げ、はっきりと告げた。
「うそだ」
ヴェインの呼吸が、ほんの僅かに止まった。
盤面上のすべてを騙し、大国の老公爵エドガーとすら渡り合った自らの分厚い嘘が、この泥に塗れた少女の無垢な瞳の前では、いとも容易く見透かされてしまう。
長い、静かな沈黙が降りた。
やがてヴェインは、深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力をゆっくりと抜いた。
「……少し怖い」
それは、彼が為政者としての仮面を外し、ただのヴェイン=グレイハルトという一人の人間として初めて吐露した『本音』だった。
エラは何も言わず、自分の懐から小さなものを取り出し、ヴェインの前に差し出した。
乾燥した青草や名もなき花を束ね、不器用に編み込まれた『息吹束』だった。
大陸に古くから伝わる土着の信仰、『緑祈』において、命の無事と生還を願う祈りの象徴。
神など信じていない。
祈りで命が救われるなら、父は死なず、領民は鞭打たれていない。
ヴェインは極端な無神論者であり、徹底した合理主義者だ。
「これを持って行って」
しかし、エラの真っ直ぐな鳶色の瞳を見た瞬間、ヴェインはその冷徹な合理性を静かに脇へ置いた。
彼は差し出された息吹束を受け取り、手のひらの上でしばらく見つめた。
乾燥した草の、かすかな土の匂い。
そこには神の力などない。
ただ、一人の少女が自分の生還を強烈に『祈ってくれている』という事実だけが、そこには確かに編み込まれていた。
ヴェインはそれを、外套の最も深い内ポケット——心臓に一番近い場所へと静かにしまった。
「ありがとう」
夜風の中、短く発せられたその言葉。
エラは微かに目を細めた。その感謝の言葉が、交渉の潤滑油でも計算でもなく、彼の心の最も深い場所から発せられたものであり、滅多に彼の口から出るものではないことを、彼女は誰よりもよく知っていた。




