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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第31話】



 グレイヴァル辺境領とダスクマーレを隔てる、西の国境地帯。



 雪に覆われた旧帝国時代の打ち捨てられた監視塔の最上階で、冷たい風が石の隙間からひゅうひゅうと甲高い音を立てていた。



 その薄暗い空間に、三つの影があった。



 出口をふさぐように立つ、大剣を背負った巨漢のクロード。



 そして部屋の中央で、互いの吐く白い息が届く距離で対峙たいじする二人の男。


一人は灰黒色の外套がいとうまとったヴェイン。


もう一人は、グレイヴァル正規軍の防寒外套を着込んだ三十代半ばの将校——バルトの右腕として国境警備を任されている男、マルクだった。



 マルクの顔には、濃い疲労と、死地に足を踏み入れた者特有の極度の緊張が張り付いていた。



 ペトラの情報網が数ヶ月をかけて探り当てた、ただ一つの「ほころび」。


マルクはグレイヴァルの南部の農村出身であり、己の故郷の民がバルトの命によって広場でむち打たれるのを、ただ歯を食いしばって見届けるしかなかった男だ。



 彼は剣の柄から手を離さないまま、目の前の、死んだはずの正統な主君をにらみ据えていた。



「……わなかと思いましたが、まさか本当にヴェイン様ご本人が、このような辺境の監視塔まで足を運ばれるとは」



 マルクの声は硬く、かすれていた。



「私を殺しに来たのですか。逆賊の手足として、領民の血をすすっているこの私を」


「あなたを殺せば、国境の警備はより残虐で無能な将校にすげ替えられるだけだ」



 ヴェインの平坦な声が、監視塔の冷気をさらに一段階下げる。



「マルク。あなたは自分の職務に忠実な、誇り高い軍人だ。だからこそ、理不尽な命令を下す現在の主君と、血を流す同胞との間で、誰よりも苦しんでいる」



 図星を突かれ、マルクのあごの筋肉が微かに引きつった。



 軍人にとって、主君への絶対の忠誠は魂の形そのものだ。


ガレンがどれほど愚かであれ、バルトがどれほど残酷であれ、彼らに剣を向けることは、軍人としての己の存在意義を根底から破壊する行為に他ならない。


それを理解しているからこそ、マルクは正気と狂気の境界線で、ただ命令を執行する機械になりきろうと必死に耐えていた。



「あなたを、裏切り者にしたくはない」



 ヴェインは、静かに言葉を落とした。



「今の主君の命令に、そのまま従い続けてほしい。偽の情報を流す必要も、味方の背中を討つ必要もない」



 マルクの目が、微かに見開かれた。



 謀叛むほんの誘いではないのか。


では、死の危険を冒してまで、なぜ自分をここに呼び出したのか。



「ただし」



 ヴェインの薄灰色の瞳が、マルクの瞳の奥底を真っ直ぐに射抜く。



「私が動くとき。その時だけ、動かないでいてくれれば、それで十分だ」



 監視塔に、雪混じりの風が吹き込んだ。



 マルクはヴェインの言葉の意味を咀嚼そしゃくするように、数秒の重い沈黙を挟んだ。



「……動かない、とは、どういう意味ですか」


「字義通りの意味です」



 ヴェインは瞬き一つせず、冷徹な事実として告げる。



「大雪で伝令が遅れた。部隊の編成に手違いが生じた。馬の脚が折れた。理由はなんだって構わない。あなたの軍人としての誠実さを、自らの手で傷つけることはしない。ただ、その日だけ、足が動かなければいい」



 積極的な裏切り(作為)ではなく、消極的な遅滞(不作為)。



 それは、誇り高き軍人が背負う「忠誠という名の呪い」に対する、極めて論理的で、そして恐ろしいほどに優しい免罪符だった。



 剣を抜けとは言わない。


ただ、さやから抜くのを半日遅らせてくれればいい。


その沈黙の間に、自分たちがバルトの喉元をいちぎるから。



 マルクの握りしめていた剣の柄から、ふっと力が抜けた。



 彼の脳裏で、これまでに処罰してきた領民たちの顔と、今目の前で冷たい炎を宿す若き王の瞳が交錯する。



 長い、長すぎる時間が流れた。



 クロードが微かに重心を動かした音だけが、石室に響く。



 やがてマルクは、深く、肺の底に溜まっていた泥をすべて吐き出すような重い溜め息をついた。



「……大雪の日は、どうしても峠の行軍に手間取るものです。ましてや、猛吹雪の夜であれば、部隊が半日ほど立ち往生することもあるでしょう」



 それは、忠誠の対象が、静かにすげ替えられた瞬間だった。



「……わかった。いや……承知いたしました」



 マルクは深く頭を下げ、そして一度も振り返ることなく、監視塔の暗い階段を下りていった。



 遠ざかる足音を聞きながら、クロードが大剣から手を離し、低く鼻を鳴らした。



「相変わらず、人の心の柔らかい場所をえぐるのが上手い男だ。あいつはもう、あんたのためにしか『立ち往生』しねぇよ」



 皮肉と感心の入り混じった傭兵の言葉に、ヴェインは何も答えなかった。



 監視塔の窓から、西の空を見つめる。



 テネブラ公国で老公爵エドガーに告げた三つの根拠。


その最後のピースが、今、完全に盤面へとはめ込まれた。



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