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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第30話】



 テネブラシアの重苦しい謁見えっけんの間に、ヴェインの平坦な声が響き渡った。



「グレイヴァル辺境領と、テネブラ公国との間の絶対的な不可侵条約。それが私の提案です」



 黒鋼の玉座で、老公爵エドガーは動かない。


その猛禽類もうきんるいのような双眸そうぼうが、無言で続きを促す。



「見返りとして、奪還後のグレイヴァルは、ヴェルミリアの南下を防ぐ物理的な防壁となると同時に、貴国と大国とを繋ぐ『裏の外交窓口』として機能します。大国と直接国境を接するリスクを、我が領地がすべて引き受ける。テネブラにとって、これほど安上がりで強固な盾はないはずだ」


「……お前が勝てるという、根拠を示せ」



 エドガーの低い声が、石の床をうように響いた。



 理想論は要らない。


必要なのは、ヴェルミリアという巨大な獣のあごから、辺境の領地をもぎ取るだけの具体的な勝算だ。



 ヴェインは瞬き一つせず、即答した。



「根拠は三つあります」



 薄灰色の瞳が、老支配者の眼光を真っ直ぐに射抜く。



「一つ目。グレイヴァル領内に潜む、農民たちの内応と蜂起ほうき。二つ目。西の商業都市アイゼンブルクからの強固な情報網と、物資買い付けにおける非公式な融通」



 そこまで言い切り、ヴェインはほんの半拍だけ、意図的な『間』を置いた。



「そして三つ目。ガレンの手足として動く、バルト配下の将校たちの切り崩し。……ただし、これについては現在交渉の最中であり、まだ成功には至っていません」



 ピクリと、エドガーの太い眉が動いた。



 完璧な計画の提示において、自らそのほころびを差し出すという異常な真似。


「三つ目は、確実ではないということか」


「そうです」


「なぜ、言う」



 エドガーの目に、明確な剣呑けんのんさが宿った。



 外交の場において、自陣の弱みを自ら露呈することは致命傷になり得る。


隠し通すか、あるいは「すでに手懐けた」とハッタリをかますのが定石だ。



「嘘をく理由が、ないからです」



 ヴェインは冷え切った声で、事実だけを置いた。



「貴国の情報網であれば、私が将校の切り崩しに難航していることなど、数日もあれば裏が取れるはずだ。すぐに露見する嘘で、目の前の『盾』の信用を自ら失墜させるほど、私は愚かではありません」



 沈黙。



 張り詰めた空気が、謁見の間に満ちる。



 正直な人間は外交で負ける。


先ほどエドガーが放った言葉だ。


しかし、目の前の若き王が提示した「正直さ」は、高潔な倫理観から来るものではない。


相手の情報収集能力を正確に測り、嘘の対費用効果を計算し尽くした末に選択された、極めて高度で逆説的な『戦術としての誠実さ』だった。



 エドガーは、椅子の肘掛けを指先で静かに叩き始めた。



 トントン、と硬い音が数度響き、やがて止まる。



「……一つだけ聞く」



 老支配者の声から、先ほどまでの威圧感が消え、代わりに底知れぬ深淵しんえんのような重さが漂った。



「お前は、グレイヴァルを取り戻した後、どうするつもりだ」



 ただの復讐か。それとも、失った椅子を取り戻して満足するだけの凡庸な領主か。



 ヴェインは目を伏せることなく、老公爵の顔を見据えた。


脳裏には、ダスクマーレの泥濘でいねいと、そこに倒れ伏す名もなき民の姿がよぎっている。



「大陸の秩序を、作り直したいと思っています。……いつかは」



 狂気じみた野望。


大国同士の力学で民がすり潰される今の盤面そのものを、根底からひっくり返すという途方もない宣告。



「いつか、か」



 エドガーが、鼻で短く笑った。



「まだ、夢の話です」



 ヴェインは冷徹な自己認識を崩さず、平坦に答えた。



 その瞬間、エドガーが玉座からゆっくりと立ち上がった。



 巨熊のような体躯たいくが、石段を降り、ヴェインの目の前まで歩み寄る。


そして、無数の傷に覆われた分厚い右手を、無造作に突き出した。



 ヴェインは一瞥いちべつし、自らの右手——同じく深い刃の傷跡が刻まれた手を伸ばし、その手柄を強く握り返した。



 骨が軋むほどの、重く、力強い握手。



「約束は、一つだけだ」



 至近距離で、老公爵が低くささやいた。



「グレイヴァルが落ち着いたら、セレーナと話してくれ。急かすつもりはない。ただし、忘れるな」


 ヴェインの薄灰色の瞳が、微かに揺れた。



 兵力でも、資金でもない。


ただ「話せ」という不可解な条件。


だが、その言葉の裏に隠された巨大な気配を、ヴェインの鋭敏な知覚が瞬時に感じ取っていた。



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