【第30話】
テネブラシアの重苦しい謁見の間に、ヴェインの平坦な声が響き渡った。
「グレイヴァル辺境領と、テネブラ公国との間の絶対的な不可侵条約。それが私の提案です」
黒鋼の玉座で、老公爵エドガーは動かない。
その猛禽類のような双眸が、無言で続きを促す。
「見返りとして、奪還後のグレイヴァルは、ヴェルミリアの南下を防ぐ物理的な防壁となると同時に、貴国と大国とを繋ぐ『裏の外交窓口』として機能します。大国と直接国境を接するリスクを、我が領地がすべて引き受ける。テネブラにとって、これほど安上がりで強固な盾はないはずだ」
「……お前が勝てるという、根拠を示せ」
エドガーの低い声が、石の床を這うように響いた。
理想論は要らない。
必要なのは、ヴェルミリアという巨大な獣の顎から、辺境の領地をもぎ取るだけの具体的な勝算だ。
ヴェインは瞬き一つせず、即答した。
「根拠は三つあります」
薄灰色の瞳が、老支配者の眼光を真っ直ぐに射抜く。
「一つ目。グレイヴァル領内に潜む、農民たちの内応と蜂起。二つ目。西の商業都市アイゼンブルクからの強固な情報網と、物資買い付けにおける非公式な融通」
そこまで言い切り、ヴェインはほんの半拍だけ、意図的な『間』を置いた。
「そして三つ目。ガレンの手足として動く、バルト配下の将校たちの切り崩し。……ただし、これについては現在交渉の最中であり、まだ成功には至っていません」
ピクリと、エドガーの太い眉が動いた。
完璧な計画の提示において、自らその綻びを差し出すという異常な真似。
「三つ目は、確実ではないということか」
「そうです」
「なぜ、言う」
エドガーの目に、明確な剣呑さが宿った。
外交の場において、自陣の弱みを自ら露呈することは致命傷になり得る。
隠し通すか、あるいは「すでに手懐けた」とハッタリをかますのが定石だ。
「嘘を吐く理由が、ないからです」
ヴェインは冷え切った声で、事実だけを置いた。
「貴国の情報網であれば、私が将校の切り崩しに難航していることなど、数日もあれば裏が取れるはずだ。すぐに露見する嘘で、目の前の『盾』の信用を自ら失墜させるほど、私は愚かではありません」
沈黙。
張り詰めた空気が、謁見の間に満ちる。
正直な人間は外交で負ける。
先ほどエドガーが放った言葉だ。
しかし、目の前の若き王が提示した「正直さ」は、高潔な倫理観から来るものではない。
相手の情報収集能力を正確に測り、嘘の対費用効果を計算し尽くした末に選択された、極めて高度で逆説的な『戦術としての誠実さ』だった。
エドガーは、椅子の肘掛けを指先で静かに叩き始めた。
トントン、と硬い音が数度響き、やがて止まる。
「……一つだけ聞く」
老支配者の声から、先ほどまでの威圧感が消え、代わりに底知れぬ深淵のような重さが漂った。
「お前は、グレイヴァルを取り戻した後、どうするつもりだ」
ただの復讐か。それとも、失った椅子を取り戻して満足するだけの凡庸な領主か。
ヴェインは目を伏せることなく、老公爵の顔を見据えた。
脳裏には、ダスクマーレの泥濘と、そこに倒れ伏す名もなき民の姿がよぎっている。
「大陸の秩序を、作り直したいと思っています。……いつかは」
狂気じみた野望。
大国同士の力学で民がすり潰される今の盤面そのものを、根底からひっくり返すという途方もない宣告。
「いつか、か」
エドガーが、鼻で短く笑った。
「まだ、夢の話です」
ヴェインは冷徹な自己認識を崩さず、平坦に答えた。
その瞬間、エドガーが玉座からゆっくりと立ち上がった。
巨熊のような体躯が、石段を降り、ヴェインの目の前まで歩み寄る。
そして、無数の傷に覆われた分厚い右手を、無造作に突き出した。
ヴェインは一瞥し、自らの右手——同じく深い刃の傷跡が刻まれた手を伸ばし、その手柄を強く握り返した。
骨が軋むほどの、重く、力強い握手。
「約束は、一つだけだ」
至近距離で、老公爵が低く囁いた。
「グレイヴァルが落ち着いたら、セレーナと話してくれ。急かすつもりはない。ただし、忘れるな」
ヴェインの薄灰色の瞳が、微かに揺れた。
兵力でも、資金でもない。
ただ「話せ」という不可解な条件。
だが、その言葉の裏に隠された巨大な気配を、ヴェインの鋭敏な知覚が瞬時に感じ取っていた。




