【第3話】
地下牢へと続く螺旋階段は、数百年分の罪人たちの足擦れによって中央がすり鉢状に窪んでいた。
カビと古い排泄物、そして乾いた血の匂いが、冷気と共に底から這い上がってくる。
両脇を固める二人の兵士の軍靴が、単調なリズムで石段を叩いていた。
先頭を歩く兵士が掲げる松明の炎だけが、揺れ動く影を湿った壁面に投げかけている。
ヴェインは抵抗することなく、ただその足音に合わせて下へ、下へと降りていた。
頭の中は奇妙なほど白かった。
信仰の残骸も、叔父の裏切りも、今は遠い出来事のように感じられる。
極限の疲労と寒さが、彼の思考から一切の熱を奪い去っていた。
不意に、左手の壁面に開いた古い通気口から、氷柱のような夜風が吹き込んだ。
ゴウ、と石の管が低く唸る。
直後、先頭の松明が唐突に息絶えた。
完全な暗闇が、三人を飲み込む。
兵士の一人が舌打ちをし、火打ち石を探ろうと立ち止まる。その、ごく僅かな衣擦れの音。
ヴェインは考えて動いたわけではなかった。
視界が奪われた瞬間、幼い頃から体に染みついた「重心を低く落とす」という特有の癖が、無意識下で発動した。
沈み込んだ体が、反射的に前方の暗がりへと弾け飛ぶ。
肩先が、火打ち石を探っていた兵士の鳩尾に深くめり込んだ。
短い呻き声と、甲冑が石段を転げ落ちる無骨な音が連鎖する。
背後の兵士が「あっ」と声を上げるより早く、ヴェインの足は暗闇の階段を駆け上がっていた。
一切の計画などない。
ただ、冷たい地下の底で犬のように首を括られることだけを、血肉が拒絶した。
中庭に飛び出すと、横殴りの吹雪が容赦なく視界を白く塗り潰した。
足首まで埋まる雪を蹴立て、無我夢中で走る。
肺が悲鳴を上げ、吸い込む冷気が無数のガラス片となって喉の奥を切り裂いた。
背後で、重々しい青銅の鐘が乱打される。
旧帝国時代から城の頂に吊るされているその鐘は、外敵の襲来ではなく、内なる獲物の逃亡を告げるために不協和音を撒き散らしていた。
城壁が目の前に迫る。
何世代にもわたる風雪で漆喰が剥げ落ち、石の継ぎ目が露出した古い壁。
ヴェインは凍りついた石の隙間に素手をねじ込み、強引に体を持ち上げた。
爪が剥がれ、温かい血が冷たい石を滑る。
激痛に奥歯を噛み割りそうになりながら、強引に身を翻して壁の外へと跳躍した。
何メートル落ちたのかもわからない。
深い雪溜まりに叩きつけられ、全身の空気が一瞬にして外へ弾き出された。
膝と肩に鈍い痺れが走るが、骨は折れていない。
ヴェインは雪泥に塗れながら立ち上がり、再び駆け出した。
どれだけ走ったか。
足の感覚が完全に消失し、ただ機械のように太腿を上下させることしかできなくなった頃。
ヴェインは、枯れ野へと続く森の縁で、ついに膝を折った。
太い木の幹に背を預け、胃液を吐き出すように激しく喘ぐ。
口の周りにこびりついた雪が、体温で溶けて泥水となって滴り落ちていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、振り返る。
漆黒の夜空に、先ほどまで自分がいた城の巨大なシルエットが浮かび上がっていた。
城壁の銃眼には、次々と新しい松明の赤い光が灯っていく。
まるで、突き崩された蟻塚のように群がる追手の気配が、遠く離れたここまで風に乗って伝わってきた。
城の最も高い場所。
見張り塔の頂きに、視線を上げる。
荒れ狂う吹雪の中で、一つだけ黒い影が激しく回っていた。風見鶏だった。
右へ、左へ。
行き先を示すことなどできず、ただ圧倒的な暴力のような冬の風に弄ばれ、甲高い金属の悲鳴を上げながら旋回し続けている。
その無様な姿は、暗闇の中でただ足掻くことしかできなかった己自身の姿そのものだった。
(どこへ行けばいい)
凍てつく虚空に向かって、声にならない問いを投げる。
家門も、領地も、昨日までの自分を形作っていたすべてが、あの雪の向こう側で灰に変わった。
縋るべき神さえも、とうの昔に自分を見捨てて金貨に魂を売っている。
誰も答えない。
風見鶏が狂ったように回り続けるだけだ。
ヴェインはゆっくりと顔の雪を拭い、西を見た。
西。枯れ野のさらに先。
文明の光が届かず、神の威光も及ばない、追跡者すら踏み入ることを躊躇う泥と暴力の掃き溜め。
ダスクマーレ。
他に道はない。
何も持たない者が行き着く先は、いつだって最底辺の泥濘だけだ。
ヴェインは木の幹から背中を離し、再び雪の中へ足を踏み出した。




