【第29話】
南の強大な軍事国家、テネブラ公国。
その王城テネブラシアの奥深くにある謁見の間は、豪奢な装飾を一切排した、鉄と分厚い石材だけの武骨な空間だった。
薄暗い部屋の最奥。
一段高くなった黒鋼の玉座に深く腰を沈めているのは、老公爵エドガー=テネブラ。
白髪を後ろで厳格に撫でつけ、顔には無数の深い皺と刃の傷跡を刻んだ、歴戦の猛禽類を思わせる老支配者である。
エドガーは椅子に座ったまま、微動だにしなかった。
玉座の前に単身で引き出されたヴェインを、瞬き一つせずに見下ろしている。
沈黙が落ちた。
一分、あるいは五分。
並の使者であれば、その圧倒的な死地の重圧と、射抜くような眼光の前に膝を折り、冷や汗を流して許しを乞うだろう。
しかしヴェインは、灰黒色の外套を纏ったまま、彫像のように音もなく立ち尽くしていた。
両手は自然に下ろされ、薄灰色の瞳は老公爵の目を真っ直ぐに見据え返している。
呼吸の乱れすらない。
「……グレイハルトの子か」
唐突に、地鳴りのような低い声が石壁を震わせた。
「そうです」
ヴェインは抑揚のない、平坦な声で即答する。
「父のヴァルターとは、過去に一度だけ会ったことがある」
エドガーは玉座の肘掛けに顎を乗せ、目をすがめた。
「実直な男だった」
「存じています」
ヴェインの答えに、エドガーの視線がさらに鋭さを増す。
探るような、あるいは若者の底を暴こうとするような冷徹な刃の光。
「お前は、父に似ているか?」
その問いは、単なる容姿の話ではない。
大国ヴェルミリアの謀略に敗れ、辺境の雪野原に散った敗残の王と同じ『甘さ』を持っているかという、死に直結する踏み絵だった。
ヴェインの脳裏に、木剣を握る父の分厚く温かい手がよぎる。
領民を愛し、剣を抜くことを最後まで避けた、正しく、そして弱かった父。
「顔は似ていると言われます」
ヴェインの平坦な声が、謁見の間に静かに響いた。
「しかし、父は私より正直な人間でした」
それは、誇りであった。
己の父が、どれほど為政者として不器用で、泥に塗れることを嫌う高潔な人間であったかという事実への、絶対的な肯定。
しかし同時に、自分はもうその美しい道を歩むことはできないという、決別と呪いの宣言でもあった。
エドガーが、微かに目を細めた。
「正直な人間は、外交で負ける」
経験という名の血の海を渡ってきた老支配者の、残酷なまでの真理。
その言葉は、まるで未来のヴェイン自身が、鏡の向こうから現在のヴェインを値踏みしているかのような、奇妙な共鳴を孕んでいた。
「父は、外交で負けました」
ヴェインは瞬き一つせず、冷え切った事実としてそれを受け止めた。
そして、己の右手の掌——深く刻まれた刃の傷跡を、外套の陰で静かに、しかし血が滲むほど強く握り込む。
「私は、勝ちたいと思っています」
勝ちたい。
その短い言葉の裏には、生き延びたいという凡庸な欲望はない。
嘘を吐き、毒を盛り、他者を駒として盤面で使い潰してでも、父を殺した巨大な怪物たちの首を刎ね落とすという、純度の高い漆黒の殺意と覚悟だけが圧縮されていた。
再び、重い沈黙が謁見の間を支配した。
エドガーは玉座の上で、目の前の若き亡命者の瞳の奥底をじっと覗き込んでいた。
やがて、老公爵の口元が、ほんの数ミリだけ弧を描く。
狂気と計算を完全に制御し、自らの手を泥で汚すことを受け入れた、同類の目を認めた証だった。
「……話を聞こう」
エドガーが玉座の背もたれからゆっくりと体を起こした。
それは、軍事国家テネブラが、名もなき『灰色の風見鶏』を対等の交渉相手として盤面に迎え入れた、決定的な瞬間だった。




