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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第28話】



 ダスクマーレの拠点、石造りの倉庫の奥。



 深夜の静寂の中、ヴェインは分厚い羊皮紙に向かって静かに羽ペンを走らせていた。


 宛先は、南の強大な軍事国家テネブラ公国に長く君臨する老練なる為政者、エドガー。



 つづられる文面は、大国への卑屈な嘆願などではない。


盤面全体を見下ろす冷徹な警告文だった。



『——私はグレイヴァル辺境領の正統継承者、ヴェイン=グレイハルトとして名乗りを上げる。我が叔父ガレンの統治は、すでにヴェルミリアの傀儡かいらいと化している。北の鉱山と東の街道は実質的に彼らの支配下にあり、この大陸西部への侵蝕しんしょくは、やがて南に位置する貴国テネブラの喉元に突きつけられる刃となるだろう。緩衝地帯としてのグレイヴァルを失うことは、貴国にとっても致命的な脅威であるはずだ』



 ヴェインはペンを置き、真紅の封蠟ふうろうを炎で溶かして羊皮紙の結び目にしたたらせた。


 外套がいとうの奥底から、銀の印章指輪シグネット・リングを取り出す。


代々の当主が受け継ぐ『双頭の灰狼』の紋章を、まだ熱いろうへ容赦なく押し当てた。



 血の証明が、ここに完成した。



 それから、三週間の時が流れた。



 ダスクマーレの泥濘でいねいに、一人の黒衣の早馬が降り立った。



 密使がもたらした封書には、テネブラ公国の国章である『黒鷲くろわし』の極印が押されていた。


ペトラが周囲の警戒を解いた後、長机の上でヴェインがその封を切る。



 クロードやエラが息をんで見守る中、中から出てきた羊皮紙には、たった二行の簡潔な文字だけが記されていた。



『会いましょう。

 ただし、単身で』



 外交の礼儀も、恭順の要求もない。


き出しの要求だけが、刃のように羊皮紙の上に置かれている。



 クロードが、太い首を鳴らして低くうなった。



「……わなかもしれないぞ。お前の首をヴェルミリアに売り渡すための、ていのいい誘い込みだ」



 軍事国家テネブラの本陣へ、護衛もつけずに一人で乗り込む。


それは自ら虎の口へ頭を突っ込むようなものだ。



 しかしヴェインは、短すぎる返書を薄灰色の瞳で冷徹に見下ろしたまま、表情一つ変えなかった。



「可能性はある。エドガーという男が、私の提示した『盤面』よりも、ヴェルミリアとの一時的な協調の方に利益を見出せば、私はその場で首をねられる」



 極めて平坦に、自身の死の確率を口にする。



「しかし、この誘いを断れば、そこで計画は終わりだ。テネブラの牽制けんせいなくして、グレイヴァル奪還の絵は描けない。……奴は、私が死地に単身で踏み込むだけの『王の目』を持っているかどうかを、最初から試しているんだ」



 その日の夜。



 出発の準備は短時間で終わった。


必要最低限の旅の干し肉と、外套の裏に隠したあの軍用短剣一本のみ。



 ヴェインが荷物をまとめ、くらに乗せるための革袋のひもを縛り終えた時だった。



 背後に、音もなくエラが立っていた。



 いつものように、平坦で深い鳶色とびいろの瞳。


だが、その両手は彼女自身の粗末な服のすそを、微かに白くなるほど強く握りしめていた。



「帰ってくるよね」



 暗がりの中で、エラの声が静かに響いた。



 問いかけの形をとってはいるが、それはこれまで彼女が見せてきた無垢むくな好奇心とは違う。


初めてヴェインという存在に対して向けられた、明確な『執着』の響きだった。



 ヴェインは紐を結ぶ手を止め、エラを見下ろした。



「……帰る」



 短く、断定的な答え。



 しかしエラは、それだけでは納得しなかった。


一歩だけヴェインに近づき、彼を見上げたまま、はっきりと口を開く。



「約束して」



 ヴェインの呼吸が、ほんの僅かに止まった。



 約束。


それは為政者にとって最も重いかせだ。


確率と計算で動く盤面において、死地から生還するという絶対の保証など、どこにも存在しない。


嘘をつくことは簡単だ。


だが、この泥に塗れた少女のまっすぐな瞳の前で、安易な気休めを口にすることは、彼女の魂を侮辱することと同義だった。



 数秒の、重く静かな『間』が落ちた。



 ヴェインは深く息を吸い込み、冷たい肺の底にそれを沈める。



 そして、己の右手の傷跡を無意識に握り込みながら、低く、しかし絶対に揺らぐことのない声で応えた。



「……約束する」



 エラの握りしめていた服の裾から、ふっと力が抜けた。



 彼女は何も言わず、ただ一度だけ静かに頷くと、いつものように自分の寝所であるわらの束へと戻っていった。



 残されたヴェインは、革袋の紐を強く引き絞った。



 たった一つの命のやり取りが、これほどまでに重く、そして奇妙な熱を持って自らの内に残ることに、若き王は静かな戸惑いと、それ以上の抗いがたい『生への執着』を感じていた。



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