【第26話】
ダスクマーレの石造りの倉庫に、凍りつくような沈黙が落ちていた。
長机の前に座り込んでいるのは、グレイヴァルから命からがら逃げ延びてきた若い農夫だった。
彼の衣服は引き裂かれ、泥と乾いた血にまみれている。
震える両手でエラから渡された熱い白湯の椀を握りしめながら、男はうわ言のように故郷の惨状を口にしていた。
「……村の広場で、見せしめにされたんだ。今年の冬を越すためのわずかな蓄えまで『ヴェルミリアへの税』として徴収されそうになって、それに抗議した若者三人が」
男の歯の根が合わず、カチカチと乾いた音を立てる。
「バルト様——いや、あの悪魔が率いる兵士たちに、広場の木に縛り付けられて……背中の肉が裂け、骨が見えるまで鞭を打たれた。三人の悲鳴が、今も耳から離れないんだ」
部屋の隅で聞いていたクロードが、忌々しげに舌打ちをして壁を蹴った。
しかし、長机の反対側に立つヴェインの表情には、微塵の揺らぎもなかった。
彼は薄灰色の瞳を農夫に向けたまま、静かに傍のペトラへと視線を流す。
ペトラは腕を組み、重苦しい溜め息を吐き出した。
「アイゼンブルクのギルド経由で裏は取れてる。だけど、その『ヴェルミリアへの税』ってのは建前さ。実際には、大国からの要求額はそこまで高くない。ガレンがヴェルミリアの機嫌を取るために、あるいは自分の懐を温めるために、勝手に上乗せした非公式な重税だ」
ヴェインの頭蓋の奥で、冷徹な計算の歯車が噛み合った。
バルトという男の本質。
彼は残虐な加虐趣味を持っているわけではない。
かつてヴェインの父の下で実務をこなしていた時と同様、ただ上に立つ者の命令を、いかなる感情も交えずに『完璧に執行』しているだけなのだ。
ガレンが狂った数字を提示すれば、バルトはそれを達成するために、最も効率的で論理的な手段——すなわち恐怖による支配を淡々と選択する。
「バルトを、これ以上の悪役として扱う必要はない」
ヴェインの平坦な声が、倉庫の冷たい空気を震わせた。
農夫が信じられないものを見るように顔を上げ、ペトラが目を細める。
「バルトは、今やただの精巧な道具だ。所有者の命令に従って肉を切り裂く刃に過ぎない。盤面から排除すべき真の問題は、その刃を狂ったように振り回しているガレンと、背後で糸を引くヴェルミリアだ」
感情を一切排した、事実だけの解剖。
農夫は声も出せずに俯き、エラがそっとその背中をさすった。
ペトラはヴェインの横顔をじっと見つめ、やがて自嘲するように口角を上げた。
「……あんた、本当に冷たいね」
血を流す民を前にして、怒りよりも先に盤面の構造を語る男への、裏街の女なりの率直な評価だった。
「冷たいか」
ヴェインは視線を羊皮紙の地図へ落としたまま、短く応じる。
「怒らないの? あんたの故郷の連中が、理不尽に肉を裂かれてるんだよ」
ペトラの問いに、ヴェインはゆっくりと顔を上げた。
その薄灰色の瞳の奥を見た瞬間、ペトラは思わず息を呑み、半歩後ずさった。
氷のように静かな水面の下で、世界を焼き尽くすほどの漆黒の炎が、音もなく渦を巻いている。
怒っていないはずがない。
しかしその激情は、一切の無駄なく極限まで圧縮され、冷たい殺意の塊として脳髄の底に沈められていた。
「怒っている」
声は、先ほどよりもさらに低く、そして静かだった。
「ただ、その怒りの最も効果的な『使い方』を考えているだけだ」
その夜。
皆が寝静まった倉庫の暗がりで、ヴェインは一人、小さなランプの灯りを頼りに軍用短剣の手入れをしていた。
シャッ、シャッという砥石の音が、規則正しく暗闇に響く。
城の地下階段で兵士から奪い取った無骨な刃。
その冷たい鋼の感触が、深い傷跡の残る右手の掌に重く伝わってくる。
『――剣は、最後の手段だ』
暗闇の奥から、父ヴァルターの低く温かい声が蘇る。
為政者として、王として。
剣を抜かず、言葉と知恵で民を守るのが理想の統治だ。
しかし、狂った獣に言葉は通じない。
民の背中が裂かれ、血が泥に吸い込まれていく現実の前で、理想は無力な幻影に過ぎない。
ヴェインは砥石を止め、研ぎ澄まされた刃先をランプの光に透かした。
鈍い銀色の光が、彼の冷え切った瞳を細く照らし出す。
(父上。あなたは正しかった)
ヴェインは刃を鞘に収め、短剣を強く握り込んだ。
(だが、その『最後の手段』が必要な日は、必ず来る)
窓の外から、ダスクマーレの泥を叩く冷たい冬の雨音が、いつまでも静かに響き続けていた。




