【第25話】
東の枯れ野を越え、ダスクマーレの泥濘へと流れ着く流浪の民は、冬の足音と共にその数を急激に増していた。
ヴェインたちが拠点とする石造りの倉庫は、今や三十人を超えるグレイヴァルからの逃亡農民たちで溢れかえっていた。
濡れた麻布と、獣の脂、そして長旅の疲労と病の混じった重い匂いが、閉じられた空間に滞留している。
エラとペトラが巨大な鉄鍋で粥を炊き出し、ハインツが急造の土留めで隙間風を防いでいたが、根本的な解決には程遠い。
ヴェインは部屋の隅に立ち、床に敷かれた藁の上で丸くなる彼らの姿を、無言のまま見下ろしていた。
重税に耐えかね、あるいはバルトの私兵に家族を見せしめにされ、土地を捨てた者たち。
彼らの手足は凍傷で黒ずみ、瞳からは生きる気力すら削ぎ落とされている。
その中から、一人の老人が這うようにしてヴェインの足元へ歩み寄ってきた。
かつてグレイヴァルの南部の村で、顔役を務めていたコルという農夫だった。
彼の右手は、税の誤魔化しを疑われた拷問の痕か、指が二本欠損し、汚れた布が巻かれている。
「……ヴェイン、様」
泥に塗れた老人が、ひび割れた唇を震わせた。
「あの雪の夜から、皆、あなたが死んだものとばかり……。ですが、まさかこのような西の果てで、再びお姿を拝見できるとは」
コルの濁った瞳から、涙が土埃のついた頬を伝って落ちる。
ヴェインは表情を変えなかった。
同情の言葉をかけることも、その肩を抱き起こすこともしない。
ただ、冷え切った冬の湖面のような薄灰色の瞳で、老人を見下ろしている。
「領主でもない私に、様をつける必要はない。今の私は、あなた方と同じように土地を追われたただの流れ者だ」
事実だけの平坦な声。
しかしコルは、その言葉に首を横に振った。
「いいえ。グレイヴァルには、まだヴェイン様が戻られるのを……密かに待っている者たちがおります。皆、ガレン卿の圧政と、ヴェルミリアの軍靴に踏み躙られながらも、いつか正統な血筋が帰還されると」
ヴェインの呼吸が、ほんの僅かに止まった。
待っている。
あの狂った風見鶏の下で、自分がすべてを失い逃げ出したあの土地で、名もなき領民たちがまだ己の帰還を信じている。
先日、父の死の真相を知り、世界を焼き尽くすほどの虚無と復讐心に呑まれかけていた彼の足元に、その言葉は重々しい楔となって打ち込まれた。
「……なぜ、私を信じる」
数秒の重い間の後。
ヴェインの声は、限界まで張り詰めた弓弦のように低く軋んでいた。
「あなたは私をほとんど知らないはずだ。私がガレン以上に無能で、強欲な男かもしれないと考えないのか」
コルは顔を上げ、ヴェインの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「お父上のような、目をしていらっしゃるからです」
ヴェインの全身が、微かに強張った。
亡き父、ヴァルター。
領民の生活を第一に考え、大国の謀略によって毒牙にかけられた先代領主。
己の中にある冷酷な計算と復讐の炎をどれほど分厚い氷で覆い隠そうとも、他者の——民の目には、その底に流れる父と同じ『血』の温度が透けて見えていたのだ。
ヴェインの口元が、無意識のうちに微かに歪みかけた。
感情が堰を切って溢れ出しそうになるのを、右手の掌に刻まれた古い傷跡を強く握り込むことで、暴力的に押さえつける。
為政者は、民の前で個人的な感傷に浸ってはならない。
ヴェインは一度だけ深く目を閉じ、再び開いた。
そこにはもう、一切の揺らぎのない『王』の視線だけがあった。
「……わかりました。必ず、戻ります」
それは慰めでも、希望的観測でもない。
鋼鉄の重さを持った、絶対的な盟約の宣言だった。
数日後の午後。
アイゼンブルク商業ギルドの最上階。イゾルデの執務室は、相変わらず没食子インクと香水の匂いに満たされていた。
ヴェインはオーク材の机の前に立ち、一枚の羊皮紙を滑らせた。
「ダスクマーレに流入している三十名強のグレイヴァル難民を、アイゼンブルクのギルドで一時的に雇用してもらいたい」
「……難民の救済? 言ったはずよ、私は慈善家ではないと」
書類から目を上げたイゾルデが、紫水晶の瞳を冷たく細める。
「救済ではない。取引だ」
ヴェインは瞬き一つせずに切り返す。
「彼らは東の厳しい冬を越す術を知り、過酷な労働に耐える頑強な肉体を持っている。荷運びでも、倉庫の警備でも、ギルドの末端労働力として十分に機能する。そして何より——」
ヴェインはそこで一拍の『間』を置き、声をさらに低くした。
「彼らを雇い入れ、恩を売った商会には、私が持つ情報網から、競合他社の東方物流ルートに関する『弱点』を優先的に提供する。ヴェルミリアの関所を合法的に迂回する道筋だ」
イゾルデの羽ペンが、ピタリと止まった。
難民の労働力など、大商人にとっては取るに足らない。
だが、その背後についてくる『物流の抜け道』という情報は、数千の金貨にも等しい価値を持つ。
ヴェインはただ民を救うのではない。
自らの領民の命を『労働力』という名目で盤面に載せ、自らの持つ『情報』を担保にして、大商人から合法的な庇護と資金を搾り取る。
それは紛れもなく、領地を持たない王による最初の高度な『内政』であり『外交』だった。
イゾルデは羊皮紙を見つめ、やがて優雅なため息をついた。
「……あなたのその冷たい頭蓋骨の中が、どういう構造になっているのか、時々恐ろしくなるわ」
それは大商人からの、最大級の賛辞だった。
イゾルデが羊皮紙に素早く署名を入れる乾いた音が、静かな執務室に響く。
ダスクマーレとアイゼンブルク。
二つの街を跨ぐ見えない同盟が、ここに初めて確かな形を結んだ。




