【第24話】
石造りの倉庫に、アイゼンブルクで買い付けたばかりの上質な没食子インクの香りが漂っていた。
長机の上に広げられた羊皮紙を前に、ペトラが普段の軽口を一切封印した、ひどく強張った顔で立っている。
彼女が今しがたアイゼンブルクのギルド会頭・イゾルデから直接受け取り、休馬所を飛ばして持ち帰ってきた密書には、グレイヴァル辺境領の絶望的な近況が記されていた。
「北の鉄鉱脈だけじゃない」
ペトラの乾いた声が、冷えた石壁に吸い込まれる。
「ヴェルミリアの正規軍が、グレイヴァルと東方諸国を繋ぐ主要街道にまで関所を設け、独自の通行料を取り始めた。ガレンの許可なんて得てない、完全な実力行使だ。アイゼンブルクの商人たちも、東への隊商を次々と見合わせている。……グレイヴァルは今、名実ともにヴェルミリアの属領として飲み込まれようとしている」
ヴェインは薄灰色の瞳を羊皮紙に落としたまま、微動だにしない。
ガレンの脆弱な外交基盤を突かれ、大国に領地を切り売りされることは計算の範囲内だった。
だが、ヴェルミリアの浸透速度は、ヴェインの予想を遥かに上回る早さで故郷の血脈を食い破っている。
「……それから、もう一つ。こっちはギルドじゃなく、私の情報網から拾った裏の噂だけど」
ペトラが、躊躇うように言葉を区切った。
ヴェインがゆっくりと顔を上げる。
その視線を受けたペトラは、小さく息を呑み、覚悟を決めたように一気に口を開いた。
「ヴェルミリアの軍務省に近いある貴族が、娼館の酒席で漏らしたらしい。ガレンへの謀叛支援の見返りとして、先代領主——あんたの父親であるヴァルターの『急死』を、自分たちが手配してやったんだと」
ドン、と。
目に見えない巨大な鉄鎚が、ヴェインの頭蓋を内側から叩き割った。
流行り病。
そう宣告された父の、不自然なほど青白かった死顔。
急すぎる死の直後、あまりにも手回し良く実権を掌握したガレンとバルト。
薄々は、気づいていた。
己の心の一番深い暗闇に蓋をして、直視することを避けていただけだ。
しかし今、推測が『事実』として叩きつけられた瞬間、ヴェインの体の中心から、彼を繋ぎ止めていた何かの骨組みが、音を立てて崩れ落ちていく感覚があった。
ヴェインの全身が、まるで風化した石像のように固まる。
呼吸が止まり、血の気が引き、開いたままの右手が微かに痙攣した。
ペトラはそれ以上何も言えず、痛ましげに目を伏せて部屋を後にした。
残されたヴェインは、何時間もその場から動くことができなかった。
深夜。
ダスクマーレの街外れ。
泥濘が途切れ、西の枯れ野へと続く境界の丘に、冷たい夜風が吹き荒れていた。
ヴェインはただ一人、漆黒の荒野を見下ろすように立っていた。
空には月がなく、数え切れないほどの星々が、氷の破片のように冷たく瞬いている。
背後の枯れ草を踏む、微かな足音がした。
振り返らなくてもわかる。
足音を消す技術も持たない、ひどく平坦で規則正しい歩み。
エラが、ヴェインの横に並んで立ち止まった。
「怒ってる?」
夜の闇に溶けるような、静かな問い。
ヴェインは星空から視線を外さず、喉の奥で血の塊を飲み込むようにして答えた。
「……ああ」
それだけを絞り出すのに、どれほどの力が必要だったか。
ヴェルミリアという巨大な国家。
父を暗殺し、故郷を蹂躙し、己からすべてを奪い去った真の敵。
その輪郭が完全に確定した今、彼の内側では、世界そのものを焼き尽くさんばかりの漆黒の炎が渦を巻いている。
「泣かないの?」
エラが、ヴェインの横顔を見上げて聞いた。
名もなき廃村の炉の前で出会ったあの日、火を起こせなかったヴェインの瞳の奥を覗き込んだ時と同じ、無垢で残酷な問い。
ヴェインの瞼が、微かに震えて下りた。
「……泣き方を、忘れた」
悲しみがないわけではない。
ただ、その感情を涙という形で表出させる機能が、あの雪の夜に完全に壊れてしまったのだ。
為政者として、王として盤面に立つことを選んだ代償。
誰の死も、誰の裏切りも、すべてを冷徹な計算式へと変換しなければ生き残れないという、呪いにも似た防衛本能。
エラは「そう」とだけ短く呟いた。
彼女はそれ以上何も問わず、枯れ草の上に無造作に腰を下ろした。
そして、自分の両膝を抱え込むようにして、ヴェインと同じ星空を見上げ始める。
慰めの言葉も、同情の涙もない。
ただ、圧倒的な孤独を抱えて立ち尽くす男の隣に、一人の人間が確かに『存在』しているという事実だけが、そこに置かれていた。
冷たい風が二人の間を吹き抜け、ヴェインの灰黒色の髪を乱暴に揺らす。
彼は微かに息を吐き出し、エラの隣に、音もなく腰を下ろした。




