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灰の中から王は生まれる〜しかし王冠は、何人かの血で染まっている〜  作者: 水縒あわし
第1部

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【第23話】



 ダスクマーレの泥濘でいねいに、東からの湿った風が吹き込んでいた。



 日が落ちて間もない安酒場。


普段であれば流れ者たちの陰惨な怒声が飛び交うその空間に、今日は奇妙な静けさが落ちていた。



 店の中央で、仕立ての良い、しかし道中の泥で裾が汚れきった外套がいとうを着た男が、羊皮紙の布告書を高く掲げている。


グレイヴァル辺境領の新しい主、ガレンが放った使者だった。



「逆賊、ヴェイン=グレイハルト! この謀叛人やむほんにん)の首、あるいは確かな身柄を引き渡した者には、銀貨五十枚の報奨を約束する!」



 使者の声は大きく張り上げられていたが、その語尾は微かに震えていた。



 無法街の底なしの暗がりと、周囲を取り囲むゴロツキたちの飢えた視線に、男の精神が悲鳴を上げているのだ。


誰も布告書を受け取ろうとはしない。


銀貨五十枚という破格の報奨金に喉を鳴らす者はいたが、同時にこの街で急速に広まりつつある『灰色の旦那』の容赦ない手腕が、彼らの足を重く石畳に縫い付けていた。



 その夜。



 使者が逃げるようにして逃げ込んだ安宿の、腐りかけた木造の二階廊下。



 油ランプの芯が細く燃える薄暗がりの中で、使者は震える手で自室の鍵穴に鉄の鍵を差し込もうとしていた。


カチャカチャと、焦りから鍵先が金属の縁を滑る音が何度も響く。



「ヴェイン=グレイハルトです」



 不意に、背後の暗闇から、氷の底を滑るような平坦な声が落ちた。



 使者の指先から、カラン、と鍵が床にこぼれ落ちた。



 男の背筋を、暴力的なまでの悪寒が駆け上がる。


心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から脂汗が一気に噴き出した。



 ギクシャクと、びついた機械のように首を後ろへ回す。



 三歩後ろ。


ランプの光が届かない廊下の死角に、灰黒色の外套を着た若者が静かに立っていた。


そのさらに後ろの暗がりには、天井に届くほどの巨躯きょくを持った男が、分厚い大剣に寄りかかって退屈そうに鼻を鳴らしている。



 逃げ道はない。


悲鳴を上げようにも、極度の恐怖で肺が収縮し、喉の奥でヒューという乾いた空気が鳴るだけだった。



 ヴェインは腰の短剣に手を伸ばすことすらしていない。


ただ、両手を外套のポケットに入れたまま、薄灰色の瞳で使者を真っ直ぐに見据えている。



「あ、あ……っ」



 使者の膝が震え、その場にへたり込みそうになった時。



「叔父上に伝えてください」



 ヴェインの低い声が、男の鼓膜を冷たく打った。



「私は、生きている。それだけでいい、と」



 言い訳も、報復の宣言もない。


ただ、己の生存という『事実』だけを、冷徹な刃として相手の喉元に突きつける。


それこそが、ガレンとバルトの敷いた盤面を根底から揺るがす最大の毒であることを、ヴェインは正確に計算し尽くしていた。




 使者は恐怖で見開かれた目のまま、何度も、何度も激しく首を縦に振った。



 ヴェインはそれ以上何も言わず、きびすを返した。


背後のクロードが短く舌打ちをし、二人の足音は軋む階段を下りて、夜の闇の中へ音もなく消えていった。



 翌朝。



 ダスクマーレの空は、厚い雲の隙間から細い秋の陽光をこぼしていた。



 石造りの倉庫の拠点。長机で羊皮紙の束を整理していたペトラが、れたての苦草茶にがくさちゃをヴェインの前に置きながら、口角を面白そうに吊り上げた。



「ガレンの使者、夜明けと共に馬を潰す勢いで東へ逃げ帰ったよ。街の連中は、あんたが五十枚の銀貨の懸かった自分の首を、わざわざ使者の前にさらして生かして帰したってうわさで持ちきりさ」



 ペトラは自分の分の茶をすすり、机に肘をついた。



「信用の積み上げだね。どんな大金積まれても、あの度胸を見せつけられちゃ、下っ端のゴロツキどもは恐ろしくて手が出せない」



 ヴェインは茶の縁を指でなぞりながら、視線を羊皮紙の地図に落としたままで口を開く。



「使者を殺す必要はない。むしろ生かして返す方が得だ」



 感情を殺した、乾いた響き。



 殺せば、一時的な怒りの鬱憤うっぷんは晴れるかもしれない。


だが、死体は何も語らない。


恐怖と混乱を抱えた使者をそのまま東へ送り返すことで、ガレンの玉座の下に『正統な継承者が西で力を蓄えている』という疑心暗鬼の種を確実に植え付けることができる。



 不要な血は流さない。


それは慈悲ではなく、血を流すことの『コスト』と『利益』を天秤てんびんにかけた結果の、極めて冷酷な合理主義だった。



 部屋の隅で、テオが木剣の手入れをする手を止め、ヴェインの横顔をじっと見つめていた。



 十二歳の少年の目に映るその姿は、血に飢えた野盗の頭目でも、慈悲深い聖人でもない。


盤面上のすべての駒の動きを冷徹に計算し尽くす、静かなる『王』の輪郭を、確かに帯び始めていた。



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