【第22話】
ダスクマーレの空は、今日も分厚い鉛色の雲に塞がれていた。
拠点としている石造りの倉庫。
その重厚なオーク材の扉が軋みを上げて開き、冷たい隙間風と共に、身の丈ほどもある大剣を背負った巨躯が足を踏み入れた。
クロードだ。
だが、今日の彼はいつものように血の匂いや酒の臭いを纏っていない。
代わりに、濡れた仔犬のような泥臭さを引きずっていた。
彼の分厚い外套の陰から、二つの小さな影が恐る恐る姿を現した。
一人は、十二歳ほどの痩せぎすの少年。
泥に塗れてはいるが、その双眸は怯えよりも警戒が勝り、部屋の出入り口の数と武器の配置を瞬時に数え上げている。
もう一人は、十歳ほどの小柄な少年だ。
頬には新しい打撲痕があるが、兄貴分らしき年長の少年の背中にしがみつきながらも、その瞳には野草のような図太い生命力が宿っていた。
長机で帳簿に目を通していたヴェインは、羽ペンを置き、無言のままクロードを見上げた。
「なぜ、連れてきた」
冷え切った、事実だけを問う声。
この泥濘の街に、孤児など掃いて捨てるほどいる。
彼らすべてに同情し、慈悲をかけていては、自分たちの足元から崩れ落ちるのがダスクマーレの絶対的な掟だ。
それを誰よりも熟知しているはずの南の獣が、なぜわざわざ荷物になる子供を拾ってきたのか。
クロードは、ヴェインの視線を正面から受け止めなかった。
「……」
いつもなら太い鼻を鳴らし、憎まれ口の一つでも叩く男が、ただ沈黙した。
視線が、不自然なほど足元の石畳へと落ちている。
分厚い肩の筋肉が微かに強張り、柄に置かれた彼の手が、不器用に二度、三度と開閉を繰り返した。
「捨てておけなかった」
喉の奥から絞り出されたような、ひどく掠れた重い声だった。
それ以上の言葉はない。
ヴェインも、それ以上は問わなかった。
南の戦場で死線を潜り抜けてきた男の背中に、どれほどの後悔と、取り戻せない小さな命の幻影が張り付いているのか。
その喪失の深さを、すべてを奪われたヴェインだけは正確に感知していた。
部屋の奥から、静かな足音が近づいてきた。
エラだ。
彼女は両手に、くず肉と豆を煮込んだ熱いスープの入った木椀を抱えていた。
無言のまま、二人の少年の前にそれを差し出す。
十歳の少年――フィンが、たまらず椀に飛びつき、火傷も気にせずに獣のようにスープを胃袋へと流し込み始めた。
しかし、年長の少年――テオは、椀から立ち昇る湯気に喉を鳴らしながらも、決して手を出そうとしなかった。
彼の計算高い目は、この空間の絶対的な支配者であるヴェインの顔を、真っ直ぐに睨み据えている。
タダで施しを受けることの代償を、裏街で生きてきた本能が警戒していた。
「雑用をするなら、飯と寝床を出す」
ヴェインは長机に肘をつき、淡々と条件を提示した。
孤児に対する哀れみではない。
労働と対価という、彼らがこの先を生き抜くための最も誠実な契約の形だ。
テオはスープの椀を両手で包み込み、その温もりに一瞬だけ目を閉じた後、再びヴェインを睨み返した。
「もっといい条件は、ないのか」
傍で聞いていたクロードの太い眉が跳ね上がり、「このガキ……」と低い唸り声を上げた。
命を拾われ、温かい食事を前にしての、あまりにも不遜な交渉。
しかし、ヴェインはクロードを左手で制止した。
持たざる者が、強者に対して己の価値を吊り上げようとする牙。
それはかつて、ヴェイン自身がアイゼンブルクの女主人に対して剥き出しにしたものと、本質的に同じ形をしていた。
ヴェインの薄灰色の瞳の奥で、微かな光が揺れた。
氷のように張り詰めていた彼の口元が、ほんの数ミリだけ綻ぶ。
誰の目にも見えないほど微小な、しかし確かな、この泥の街に来て初めて浮かべた『笑み』だった。
「追々、な」
それはかつて、酒場の暗がりでクロードがヴェインに向けた言葉の意趣返しだった。
テオはその言葉の意味を咀嚼するように数秒だけ沈黙し、やがて小さく頷くと、初めて木椀の縁に口をつけた。
数日後の夕刻。
倉庫の裏手にある、空き箱を積んだだけの狭い中庭。
そこから、乾いた木のぶつかる音が絶え間なく響いていた。
「遅い! 目線が下がりすぎだ。相手の剣先じゃなく、肩の動きを見ろ!」
クロードの容赦ない怒声が飛ぶ。
泥だらけになったテオが、自分よりも重い木剣を必死に振り上げ、巨漢の傭兵に向かって何度も打ち込みをかけている。
その傍らでは、フィンが小石を積み上げながら、兄貴分の特訓を飽きもせずに眺めていた。
ヴェインは倉庫の窓辺に立ち、その光景を静かに見下ろしていた。
王の盤面に、新たな駒が二つ。
しかし彼らは、使い捨てるための歩兵ではない。
十年、あるいは二十年先。
灰の中から立ち上がる新しい国を背負って立つための、生きた土台だ。
木剣が交差する甲高い音が、ダスクマーレの澱んだ空気を切り裂いて、高く響き渡った。
22話の投稿前に12話と17話を修正しています。




