【第21話】
ダスクマーレの裏路地に、怒声と飛沫が飛び交っていた。
毛皮を扱う北方の商人と、香辛料を運ぶ南方の行商人。
ぬかるんだ泥濘に落ちた一つの積荷の所有権を巡り、互いに雇った用心棒たちが剣の柄に手をかけ、周囲の空気がひりつくような緊張に包まれている。
その一触即発の間に、灰黒色の外套が音もなく滑り込んだ。
「北の毛皮は、湿気に弱い。南の香辛料は、泥を被れば売り物にならない」
ヴェインの平坦な声が、熱狂の炎に冷や水を浴びせる。
彼は両者の間に立ち、泥に沈みかけた木箱を足先で軽く叩いた。
「ここで血を流せば、両方の荷がこの泥の底に沈む。毛皮の三割を南の商人に譲り、その代わり、南の商人は次のアイゼンブルクまでの護衛費用を全額負担しろ。そうすれば、双方の損失は最小限で済む」
どちらの味方もしない。ただ、冷徹な損得勘定だけを無機質な天秤の皿に乗せてみせる。
商人たちは血走った目でヴェインと、その背後にそびえ立つクロードの巨体を交互に睨みつけ、やがて忌々(いまいま)しげに舌打ちをして矛を収めた。
「――まったく、どちらの風にも乗る、風見鶏のような奴だ」
去り際、北の商人が泥に向かって吐き捨てたその一言。
それが、いつしかこの吹き溜まりの街で『風見のヴェイン』という異名となって、奇妙な速さで定着し始めていた。
石造りの倉庫の拠点に戻り、ヴェインは水桶(みずおけれで泥を被った革靴を洗い流していた。
壁際に寄りかかり、腕を組んでいたクロードが、面白そうに喉の奥を鳴らす。
「風見鶏、ね。随分と舐められた名をもらったもんだな。気にならないのか」
傭兵の世界において、自らの信念を持たずに強者へなびく風見鶏は、最下層の侮蔑語だ。
誇り高き戦士であれば、その場で剣を抜いて血で洗がねばならないほどの恥辱である。
ヴェインは硬い布で靴の水分を拭き取りながら、顔を上げずに答える。
「構わない」
「普通は侮辱だぞ」
「風見鶏は、風の向きを読む。それのどこが悪い」
拭き終えた靴を床に置き、ヴェインはゆっくりと立ち上がった。
薄灰色の瞳が、磨き上げられた短剣の刃面に一瞬だけ落ち、それからクロードの顔へと向けられる。
「東のガレンも、西のアイゼンブルクも、それぞれが己の正義と欲望という強風を吹かせている。私が生き残り、この盤面に勝つためには、そのすべての風圧と方角を計算式に組み込まねばならない。使える名前なら、何でもいい」
自らのプライドすらも切り売りし、実利へと変換する。
その徹底した冷徹さに、クロードは短く息を吐き出し、呆れたように肩をすくめた。
その日の夜。
冷たい雨が倉庫の屋根を叩く中、帳簿の整理を終えたペトラが、帰り際にヴェインの机の前に立ち止まった。
「ねえ。その『風見鶏』って名前、本格的に広めようか?」
彼女の指先が、机の上に積まれた銅貨の山を弾く。
キン、と硬い音が鳴った。
「侮辱のつもりで言った連中もいるだろうけど、逆に言えば『あいつの所へ行けば、どちらの顔も立てて丸く収めてくれる』って宣伝になるよ。私の情報網を使えば、アイゼンブルクの裏街まで三日で浸透させてあげる」
ただの悪口を、商売の看板へと反転させる。泥水を啜りながら生き抜いてきた女の、逞しいまでの実利主義。
ヴェインは机の上の羊皮紙から視線を上げ、ペトラの顔を静かに見つめた。
かつて雪の夜、すべてを奪われた城の頂きで、絶望の中で狂ったように回り続けていた黒い風見鶏。
行き先を示すこともできず、ただ暴風に弄ばれていた己自身の無力な姿。
あの不協和音が、今は自分の強力な武器として、盤面の中央に突き立てられようとしている。
「……頼む」
ヴェインの短く低い肯定に、ペトラは満足げに口角を吊り上げ、夜の街へと消えていった。
扉が閉まり、静寂が戻った部屋の中。
ヴェインは目を閉じ、遠く離れた故郷の空を吹く風の冷たさを、静かに皮膚で思い出していた。




